城郭探訪

yamaziro

古城山城(岩倉城・弥勒寺城・桜本城) 近江国(野洲)

2018年04月04日 | 平山城
 山上 虎口付近の石垣

古城山城(岩倉城・弥勒城・桜本城)へ
 
祠には、携帯電話が1つお供え
ノミの跡が上4つ、下に1つははっきりと
唯一、コイワカガミは咲いてました
 
古城山へ
   
お城のデータ
別 称:岩倉城・弥勒寺城・桜本城
所在地:野洲市(旧・野洲郡野洲町)大篠原   map:http://yahoo.jp/AgceJ1
現 状:山林
区 分:平
山城
築城期:室町期
築城者:馬淵奏信
  画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外大笹原神社の由緒・応永21年(1414・室町中期)--岩倉城主・馬淵定信が本殿を再建(棟札あり)
遺 構:郭・堀切・土塁・石垣
標 高:245m   比高差:150m
目標地:国道8号線脇の【ヒラタ機工】の東側に「小堤山城の案内板」ある、
小堤山城から尾根を東へ案内板ある
駐車場:林道ゲートの前に駐車場ある

訪城日:2013.4.15

古城山(ふるしろやま)と岩倉城・桜本坊と桜本池
 小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接している。昔、馬淵氏がここに城郭を築いたため古城の名があるが、今は石垣の一部が残るのみである。頂上近くに池があり、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられている。山頂への参道は、古くから表坂と裏坂と呼ばれる二つのルートがある。表坂は光善寺川を越え、ほぼまっすぐに尾根を伝い、屏風岩を通って山頂に至る。
 一方、裏坂は光善寺川の源流となる谷の一つに沿っており、途中で大きく左手に向きを変え、山頂直下の桜本池に達する。
 桜本坊は応永年間(約600年前)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置する。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令によって神道化し、桜本社と称することになった。明治二十七年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われた。
 しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになった。    
       (大篠原郷土史会)

城郭分布調査3、「当城は、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいづれかに該当するものと考えられる。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられるが、立地の点では東山道より6?以上も奥まった山中にあり、六角氏の端城の1つであろう。その後、西方500mの尾根伝いに小堤山城が築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残る。」・・・遺跡ウォーカー 
池は桜本池という池があり、底なし池で日照りでも枯れないらしいです
小堤城山城より先に築城された城、西側10m超の大土塁。
 
お城の概要
主郭は山頂ではなく、山頂より東側の一段下がったところが主郭(40m四方程度の平坦地)です。主郭の西側に小尾根があり、これが大土塁となっています。斜面の上には土塁がL字に残る郭があります。主郭の北から東側には土塁が巡ります。さらに南側に細長く平坦地が延び、東側は土塁が続きます。この細長い郭の西側は池で南側と東側に虎口があり、南側虎口には石垣も残ります。南側の虎口を出て少し進むと土塁で桝形状になっているような箇所があり、ここは南側の防衛ラインでしょうか?。また、主郭東側虎口を出てすぐ左の斜面を進むとこの先端の虎口にも石垣の痕跡がありました。
また、落城時に、この池に金の唐びつを投げ込んだとか、元旦の朝に馬の蹄の音が聞こえるなどの言い伝えがあるとの事です。最近、地元の有志で説明板が設置されていました。これによると、戦前までは小さな神社があり、江戸期以前には寺があったようで、城跡はこれの改変があるかもしれません。
 
古城山には、正安2年(1300)築城の岩倉城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城と考えられる。六角氏の築城・家臣の馬淵氏が守備したと伝えられ、六角氏の端城であった。
 
馬淵氏とは、
 佐々木定綱(1142--1205・経方の曾孫)の5男・広定が野洲郡馬淵に住んで馬淵と名乗った佐々木氏の傍流で、後に佐々木氏の嫡流・六角氏(佐々木氏は定義の孫の代に六角氏・京極氏などに別れている)に仕え馬淵氏・岩倉城(野洲市大篠原小字岩倉)の城主だったという。

希望が丘の北稜にあたる小堤城山から鏡山間には3~5つの山城があっ
たとされる。『小堤城山城』は永原重秀、古城山には『岩倉城(桜本城・弥勒寺城)』に馬渕泰信、鏡山星ケ峯に『星ケ崎城主』鏡久綱が城を構えた。石岩倉城は古城山と同一とされている。弥勒寺城も馬渕高昌が城主と明治30年ころの村誌に記載されている。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1309612055868033&set=a.123291404500110&type=3&theater

城郭分布調査3には、「当城は、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいづれかに該当するものと考えられる。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられるが、立地の点では東山道より6?以上も奥まった山中にあり、六角氏の端城の1つであろう。
その後、西方500mの尾根伝いに小堤山城築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残る。」 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地説明板・遺跡ウォーカー・大篠原神社の由緒
 本日の訪問ありがとうございす!!

夕日ヶ丘城(向山城・入日ヶ岡城) 近江国(野洲)

2018年03月31日 | 平山城

画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、植物、木、屋外

お城のデータ

別  名 : 向山城、入日ヶ岡城

所在地 : 野洲郡野洲町大篠原成橋 Yahoo!地図http://yahoo.jp/tQqeZ7

築城年 :文明年間(1469~87)

築城者: 田中四郎右衛門・奥左門守之」とあり

改築者:馬淵氏

形  式 : 平山城

標 高:146m   比高差:40m

遺  構 : 竪堀、櫓台、土塁、竪堀、堀切

訪城日 : 2018.3.31

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

お城の概要

 夕日ヶ丘城は、大篠原成橋集落の北西にある夕日ヶ岡と呼ばれる三つのピークを持つ独立丘陵の中央ピーク上に位置している。周辺には、星ヶ崎城、小堤城山城、上永原城などが2~3km程の距離で所在している。

中央ピークの東側鞍部から西に向け登って行くと、山頂部が北に張り出た所に取り付く。その斜面には、この城の見所である畝状竪堀が設けられており、竪堀の間を抜け不明瞭な堀切を経て、北東の郭に入る。北東側の中央には、方形土壇が築かれており、櫓が設けてあったと思われ、北東や南東の郭をはじめ四方への睨みを利かせている。北東土壇と中央土壇の間には、四方を土壇と土塁で囲繞された郭、中央土壇の南西側に削平地、その北西側一段下に腰郭、南西端が墳丘の土壇となっている。墳丘土壇の西側鞍部は堀切で遮断している。

いずれの遺構も不明瞭であり、織田信長軍の破城を受けたのではないかとされている画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

お城の歴史

「鏡山の西入日岡ニ城ヲ築キ 田中四郎右衛門・奥左門守 之」とあり、これは大篠原字向山の向山城(従来夕日ヶ丘城等と呼んだ)であり、また、古絵図には「入日岡 田所殿屋敷跡」と記されている(大篠原共有文書)が、詳細については不明である。

六角佐々木氏重臣馬淵氏の城と伝わる

馬淵氏は、佐々木定綱の五男定広にはじまるが、夕日ヶ丘城がいつごろ築かれたのかは明らかでない。

馬淵氏は、南北朝時代には野洲郡の郡奉行に任じられており、古くから篠原周辺に勢力をもっていた。夕日ヶ丘の名は、南東2㎞ほどのところにある、向山城の別称入日ヶ岡城に関連したものとも推測される。向山城は文明年間(1469~87)の築城とされているため、夕日ヶ丘城もその前後に築かれたものとも推測される。

  山麓の向山神社は、永正四年(1507)に馬淵山城守宗綱によって再建されたと伝わるため、このころまでには、城も築かれていたのではないかと考えられる。

 宗綱の娘は、蒲生定秀に嫁いだとされる。宗綱は、永禄十一年(1568)の信長上洛戦で戦死したとされているが、定秀の生年を考えると、不可能ではないが相当な高齢で戦に臨んだものとみられる。

宗綱とその子兵部少輔建綱は、永禄十年(1567)の「六角氏式目」に連署している。           

式目が制定されるきっかけとなった同六年(1563)の観音寺騒動では、元家臣の在地領主永原氏が六角氏に抵抗し、「篠原上の城」と同「下の城」に立て籠もった。六角義賢は、永原氏制圧のために星ヶ崎城へ入ったが、このときの馬淵氏の動向については詳らかでない。

一説には、馬淵父子も離反したともいわれるが、いずれの側にあっても、夕日ヶ丘城は前線の城の1つとなったものと推測される。 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、草、空、屋外、自然

 信長上洛後の夕日ヶ丘城および馬淵氏については詳らかでない。

『日本城郭大系』には、元亀元年(1570)に馬淵甲斐守秀信が弥勒寺城や岩倉城に拠って信長に抵抗したものの、敗れて滅ぼされたとある。夕日ヶ丘城が存続していたのか、城で戦闘があったのかな不明。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041188472710394

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041189352710306

参考資料:城歩会資料、踏査図作成・現地説明:長谷川博美氏、滋賀県中世城郭分布調査

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彦根城内堀中堀の巧妙かつ豪快な石垣の縄張をゅつくり見学する彦根城深発見!

2017年08月07日 | 平山城

写真の説明はありません。

彦根城内堀中堀の巧妙かつ豪快な石垣の縄張をゅつくり見学する彦根城深発見!画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、木、屋外、自然、水

経路予定 図書館駐車場―埋木舎―いろは松―佐和口多聞「巧妙な石垣縄張り」―馬屋―表門桝形と登り石垣―鐘之丸内堀外周「城内最高の縄張技巧横矢の配置/腰巻石垣/鉢巻石/しのぎ石垣積」-大手門橋脚/大手門桝形/上り石垣/-米倉土居見学―米蔵門口見学―舟口門見学―山崎郭準天守櫓石垣見学―山崎郭横矢見学―黒門口見学―内堀北長土居―表御殿土居―中堀石垣―京橋口桝形雁木横矢見學―中堀横矢掛見学―滋賀大―西郷屋敷門―図書館駐車場画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、水、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、屋外、水、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、水

写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、木、屋外写真の説明はありません。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、子供、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:テキスト画像に含まれている可能性があるもの:テキスト画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、水、自然

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水

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画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、子供、草、屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、木、植物、雲、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、空、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:空、木、家、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、植物、木、山、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、空、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、草、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、草、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967309563431619

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967310530098189

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雄琴城(和田氏館) 近江国(大津)

2017年06月09日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市雄琴2丁目 map:https://yahoo.jp/Oz3zdL

別 称:和田氏館

区 分:平山城

遺 構:土塁・廓

現 状:福領寺の南、竹林

築城期:天文7年(1538)

築城者;和田秀純

目標値:雄琴神社・福領寺

駐車場:福領寺に駐車

訪城日:2013.10.3・2017.5.18

2017.5.18見学

お城の概要

  雄琴城は、雄琴温泉郷の北方で、琵琶湖に向かって突出した丘陵先端部に築かれていた。琵琶湖からの距離は500mにも満たず、北国街道のみならず湖上交通の監視にも優れた立地にある。

和田源左衛門秀純の居城と言われています。現在は城薮と呼ばれる竹薮があります。城跡は、雄琴村の西方の丘の上(雄琴2丁目11番街区西側山手付近)にあった。


雄琴城は雄琴神社、およびに福領寺南西の丘陵地にあったが、延宝4年(1676)5月に山崩れが起き、その大半が埋没してしまったという。山崩れで消失した場所には現在畑地が広がっている。ただほんの先端部にはL字形の土塁を伴う曲輪と、その背後の堀切を挟んで小曲輪が残っていた。

お城の歴史

雄琴城は和田秀純の居城である。

 和田氏は六角氏の支流定秀が神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。定秀の孫高盛の時、神崎郡和田から甲賀郡和田に移住し和田城を築く。

高盛には3人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政である。3男秀純は六角義秀の近臣となり、天文7年(1538)(一説には永禄9年(1566))義秀から志賀郡雄琴を賜わり雄琴城を築城し、志賀郡の旗頭を命じられた

元亀元年(1570)元亀騒乱で浅井朝倉連合軍が織田信長軍と対峙した時、六角氏は浅井朝倉方で戦い、浅井軍が雄琴城に駐屯した。

しかし翌元亀2年(1571)には一転して織田方についた。その後坂本城主となった明智光秀の配下となったが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従った。

 秀純の嫡子信盛の代で関ヶ原合戦が勃発、西軍に与して岐阜城で討死し、弟正盛が雄琴城主となったが、江戸時代となり一国一城令が布かれ雄琴城は廃城となった。

その後の和田氏は、膳所城主本多氏や大溝城主分部氏の庇護を受けて存続したという。

『日本城郭体系 11』には、 創築年代は「天文七年(一五三八)」、創建者は「和田秀純」、形式は「山城」です。城の歴史は「雄琴城は、雄琴神社の南の丘陵地に位置しており、そこには、かつて城跡があったというが、延宝四年(一六七六)五月の山崩れで埋没したといわれている。(中略)

『近江国滋賀郡誌』には、天文七年に雄琴の土豪和田氏がこの地に城を築いたと伝えており、元亀元年(一五七〇)九月の織田信長と浅井長政・朝倉義景の戦いでは、浅井の軍勢が雄琴城に陣を置いたという。

また天正三年(一五七五)には、付近の土民が蜂起して雄琴城を攻め、同十一年に、廃城になったともいわれている。」とあります。

 

雄琴会館に駐車

2013.10.3見学

お城の歴史

雄琴城は和田秀純の居城である。

 和田氏は六角氏の支流定秀が神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。定秀の孫高盛の時、神崎郡和田から甲賀郡和田に移住し和田城を築く。

高盛には3人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政である。3男秀純は六角義秀の近臣となり、天文7年(1538)(一説には永禄9年(1566))義秀から志賀郡雄琴を賜わり雄琴城を築城し、志賀郡の旗頭を命じられた

元亀元年(1570)元亀騒乱で浅井朝倉連合軍が織田信長軍と対峙した時、六角氏は浅井朝倉方で戦い、浅井軍が雄琴城に駐屯した。

しかし翌元亀2年(1571)には一転して織田方についた。その後坂本城主となった明智光秀の配下となったが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従った。

 秀純の嫡子信盛の代で関ヶ原合戦が勃発、西軍に与して岐阜城で討死し、弟正盛が雄琴城主となったが、江戸時代となり一国一城令が布かれ雄琴城は廃城となった。

その後の和田氏は、膳所城主本多氏や大溝城主分部氏の庇護を受けて存続したという。

『日本城郭体系 11』には、 創築年代は「天文七年(一五三八)」、創建者は「和田秀純」、形式は「山城」です。城の歴史は「雄琴城は、雄琴神社の南の丘陵地に位置しており、そこには、かつて城跡があったというが、延宝四年(一六七六)五月の山崩れで埋没したといわれている。(中略)

『近江国滋賀郡誌』には、天文七年に雄琴の土豪和田氏がこの地に城を築いたと伝えており、元亀元年(一五七〇)九月の織田信長と浅井長政・朝倉義景の戦いでは、浅井の軍勢が雄琴城に陣を置いたという。

また天正三年(一五七五)には、付近の土民が蜂起して雄琴城を攻め、同十一年に、廃城になったともいわれている。」とあります。

 

福領寺

北国街道~雄琴神社・福領寺へ

北国街道からの遠望(竹藪・林)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。


番場城 近江国(米原・番場)

2017年06月08日 | 平山城

写真の説明はありません。鎌刃城まつりに参加、画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)『番場城』見学会!

画像に含まれている可能性があるもの:空、山、木、植物、屋外、自然番場城(遠景)

お城のデータ

所在地:米原市番場殿屋敷  (旧坂田郡米原町番場 殿屋敷)

現 状:山林

遺 構:曲郭・土塁・堀切・櫓台

区 分:平山城

標 高:200m   比高差:約100m

築城期:南北朝期

築城者:土肥氏カ?

城 主:堀氏カ?

目 標:西番場バス停

訪城日:2017.6.5

お城の概要

西番場地区の2ヶ所の鎌刃城登城道が番場城尾根の東西直下を走っていて、どちらからでも頂部に建つ送電鉄塔を目指せば辿り着く。目印は名神道ガード「彦根42」と「彦根43」の間である。

 縄張は三方を土塁がめぐる南北約35mの主郭を中心に、先端に腰郭、山側に櫓台を備える。櫓台の背後は山頂方向の尾根筋を堀切にて分断している。堀切の外側は、約20mの自然地形を経て、さらに薄い堀切が確認できる。
全体的に風化が激しく、土塁は薄く、櫓台は鉄塔建設により改変され不明瞭な部分が多い。尾根先は名神道開通により削り取られているので、本来の大手道は消滅したと思われる。

お城の歴史

『江州南北諸士帳』に、「番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同 同男左京進」とあり。(番場城に関して、文献等の資料は少ない。)

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。

 番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であった。

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト番場城の尾根先には殿屋敷と称される鎌刃城主堀氏の屋敷と伝承される地があるが、立地からみて番場城との詰城と居館の関係とみるのが普通である。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、屋外、自然南側の土橋

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然南側の堀切画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、木、屋外、自然

東側に下りる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然


https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042130015949573

 

西麓には「今福寺遺跡」とされる遺構が存在する。背後を水堀で遮断し、ほぼ中央の段築部には石積みが見られる。この遺跡は番場城遺構の一部のように思えるため記載しておく。

鎌刃城まつりで番場城と今福寺跡を長谷川博美先生に案内いただきました。今福寺跡は現在番場集落内にある称揚寺の前身の今福寺があったところとは知っていましたが、この地の歴史的な意味は地元でもあまり話題になる地域ではありませんでした。先生の説明を聞き3段の堀や石垣を備えた屋敷跡であったことが説得力のある説明と現地の形体から良く理解できました。番場城と一体的な中世の城下町的な屋敷ではないかと興味を持ちました。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州南北諸士帳』、鎌刃城公式サイト

本日も訪問、ありがとうございました。


岡崎鼻城  近江国(蒲生)

2017年03月20日 | 平山城

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市(旧蒲生町)横山町  map:http://yahoo.jp/zUWfwE

区分:城

立 地:山地・天狗前古墳

現 状:山林(横山自然公園)

築城期:中世

築城者:

遺 構:北側斜面に土塁か?竪堀か?、尾根部分の平削地曲輪跡か?巨岩

標 高:130m 比高差15m

目標地:横山自然公園

駐車場:横山自然公園

訪城日:2017.3.17

お城の概要

横山町小字岡崎・野田に「北の木戸」の城郭関連地名が残る。

推測だが、横山館の詰め城の可能性が考えらる。

蒲生横山地区にあったとされる丘城。 築城時期など、不詳。

雪野山の南、名神高速道路沿いに伸びる丘の東端にあったとされる。
天狗前古墳を利用して築かれたと考えられ、周囲には帯状の平坦地が複数確認できる。

古墳の巨岩も土塁・櫓台代わりに利用していたか?。

北側斜面が城の遺構らしきものであるかが不明。
現在、一帯は横山自然公園として整備されている。

お城の歴史

『滋賀県城郭分布調査4』の「岡崎鼻城」の説明欄には「近江国城記録」に見えるが、未詳。

北側斜面

東端へ

東端の古墳

布施山城(遠望)

参考資料:『滋賀県城郭分布調査4』、遺跡ウォーカー、さきろぐ

本日の訪問ありがとうございす!!


黒津城(大日山城) 近江国(田上黒津)

2017年02月18日 | 平山城

黒津城(大日山城)

お城のデータ 
所在地:大津市田上黒津町 一丁目14 map:http://yahoo.jp/jLEbJc
別 称:大日山城URLのコピー
区 分:平山城
現 状:山林・古墳・寺社地
築城期:永享年間
築城者:山岡資広
遺 構:曲輪・土塁・櫓台
標 高:129m  比高差:40m(湖水面) 比高差:25m(駐車位置) 
目標地:大津市田上黒津町 一丁目14
板碑
訪城日:2017.2.16
 
お城の概要

瀬田川と大戸川の合流点に位置する大日山(三尾山)の山頂に築かれた山城。
大日堂が建つ東端の平坦地を主曲輪とし、その西側に2段の曲輪が連なる連郭式の構造。
主曲輪の北側と東側に小曲輪が確認でき、北側には櫓台と思われる3m四方の土盛りが残る。
瀬田川に面する西端には高さ3mほどの土塁の上に櫓台と思われる平坦地があり、瀬田川・大戸川の監視の目的が窺える。
各曲輪は堀切で区切られ、北側は切岸、南側には土塁と東西に長い帯曲輪を配置。
城域の南西に虎口と思われる地形が確認でき、瀬田川へと続く。

1896年の南郷洗堰建設に伴って山の西側が大きく崩されており、当時は瀬田川に突き出た半島状の地形の上に建っていたことが推察される。

滋賀県城郭分布調査3には、「瀬田川と大戸川の合流点、大日山の頂部付近に複数の平坦地が存在する。特に瀬田川に面する北西部分には、古墳の頂部を削平したと考えられる櫓台状の郭とその周囲に犬走りが認められるが、縄張の全体については判然としていない。」 

 

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』に、「栗太郡 勢田大日山城主 佐々木末丹州籏頭随一 〇山岡美作守秀俊

                       宇多天皇八代季定公二男山岡次郎 胤綱俊胤 

                                   山岡八郎左衛門景隆

                 同 佐々木随兵後信           勢田掃部介

山岡氏の本城。
永享年間、山岡資広が勢多村を平定して「山田岡」に城を築いたことが始まりとされる。
山岡氏は元は毛枚氏・大鳥居氏を称した甲賀郡の土豪。
大鳥居資広が勢多(瀬田)を領して山岡氏を名乗り、佐々木六角氏に仕えて「江南の旗頭」と呼ばれるほど湖南地方に絶大な勢力を有した。

永享年間に山岡資広は瀬田城を築いて山岡氏の本城を移し、自身は石山城に隠居した。
瀬田城と同じく、賤ヶ岳の戦いの後に廃城になったと思われる。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 黒津河村 住 佐々木隋兵元丹州藤氏 川村孫兵衛」「黒津川村 住 笹岡権兵衛」「黒津川村 住 佐々木隋兵 好瀬庄右衛門」の名が見えるが、永享年間、山岡資広が勢多村を平定か?

  

井戸

武者隠しか?

 

参考資料:遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11。滋賀県城郭分布調査1・3、さきろぐ。

本日の訪問ありがとうございす!! 


「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第4回 特別史跡彦根城跡

2017年02月12日 | 平山城

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第4回
特別史跡彦根城跡

彦根城は、関ヶ原の合戦後、徳川家の重臣井伊家の居城として築かれました。徳川氏による近江支配の要として、また大坂城の豊臣氏に対する最前線として、重要な役割を担いました。

彦根城は、戦国時代を通じて発達を遂げた城郭の縄張の究極の姿が見られる城です。また、今も残る石垣は、築城や修築の歴史を反映して、様々な時代の様相をうかがうことができ、各時代の石垣構築技術を示す遺構として貴重なものです。国宝天守をはじめ、主要な城郭建造物が重要文化財として現在も残ることから、建造物への関心が集まっていますが、縄張や石垣といった地面に残された遺構についてももっと注目をすべき城なのです。

今回の講座では、縄張や石垣などの遺構を中心に、彦根市教育委員会文化財課専門職員の案内で彦根城跡を御覧いただきます。

 

1.日時:平成29年2月5日(日曜日)10時30分~16時00分

  • 大学サテライト・プラザ彦根集合※アルプラザ彦根(平和堂)6階
    彦根市大東町1-7 JR彦根駅西口前
  • 特別史跡彦根城跡・西の丸三階櫓前解散 JR彦根駅まで徒歩15分

2.場所

  • 講義:大学サテライト・プラザ彦根(彦根市大東町1-7)
  • 現地見学:特別史跡彦根城跡

3.行程

  • 大学サテライト・プラザ彦根(講義・昼食)→特別史跡彦根城跡内(大手門跡→鐘の丸石垣→東大堀切→本丸石垣→黒門跡→西大堀切→西の丸石垣→太鼓丸石垣→西の丸三階櫓前)
  • 全行程約4km 急斜面の上り下りあり

4.主催:滋賀県教育委員会

5.協力:彦根市教育委員会

6.講師

  • 講義「大坂城包囲網」:仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課)
  • 現地探訪:彦根市教育委員会文化財課専門職員

7.定員:60名(事前申込制先着順)

8.参加費:無料

9.参加申込方法

  1. FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯電話推奨)をお書きの上、下記までお申し込みください。
  2. 申込締切:平成29年2月2日(木曜日)午後5時

10.持ち物

  • 弁当、健康保険証、水筒、手袋、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

11.その他

  1. 講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。
  2. 単独回のみの参加も可能です。
  3. 受講された方には修了証を発行します。
  4. 当日の気象条件等の変化により、コース・終了時間等を変更する場合があります。
  5. 悪天候等による中止の場合は3日(金曜日)午後5時までに参加者に連絡します。
  6. 集合場所には駐車場がありません。公共交通機関を利用してご参加ください。

12.参加申込・問い合わせ

  • 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係
    〒521-1311滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678城郭調査事務所
    TEL0748-46-6144/FAX0748-46-6145/E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp

13.今後の予定

お問い合わせ

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 

電話番号:0748-46-6144

ファックス番号:0748-46-6145

メールアドレス:ma16@pref.shiga.lg.jp


彦根城外堀の正門は櫓門か 滋賀、礎石と石垣出土

2017年01月22日 | 平山城

彦根城外堀の正門は櫓門か 滋賀、礎石と石垣出土

出土した切通口御門跡の礎石(左)と、連続する石垣=彦根市佐和町

 滋賀県彦根市教育委員会は、同市佐和町の彦根城外堀跡発掘調査で、「切通口御門(きりとおしぐちごもん)」の礎石と、門につながる石垣が見つかったと12日、発表した。彦根城の外堀の正門にあたり、格式と防御を兼ね備えた櫓(やぐら)門だった可能性が高いという。

 市道拡幅工事に伴い、市教委が調査していた。切通口御門は1615(元和元)年ごろから、天守の東北方向に建設された。中山道と彦根城下を結ぶ彦根道が城内に入る場所に設けられ、参勤交代の際に藩主が出入りする門としても用いられたという。

 礎石は縦1・2メートル、横1メートルの湖東流紋岩。現在の路面より約60センチ地下に埋まっていた。大きさから、60センチ×数十センチ角の柱が建っていたと推定される。

「御城下惣絵図(部分)」。土橋を渡って外堀(濃い青色)の内側に入った場所に、切通口御門(中央黄色部分に薄い墨線で描かれている)があったことが記されている=彦根城博物館蔵、上が北

 石垣は、礎石から外堀土橋にかけて北に約9メートルにわたって築かれていた。上部が後退するように傾斜をつけて積まれ、内側に栗石が詰められていたことなどから、石垣と門の上部に建物を伴う櫓門だったとみられる。1836(天保7)年の「御城下惣絵図」の記載とも一致する。


2017.1.22

彦根城の切通口御門の発掘調査!! 現地説明会が、2017.1.22に行われた。
地下50~60㎝に石垣や門の敷石!
中堀の佐和口御門から食い違い虎口で、外堀~切通口御門~彦根道(佐和山切通~鳥居本)~江戸へ参勤交代にも、使われた。

桜生城出城  近江国(野洲)

2016年12月09日 | 平山城
  • 桜生出城です
  • 国道8号線脇の空き地に駐車し、城郭まで直登しました
  • 国道脇の埋もれ城郭です

 

お城のデータ

所在地 : 野洲郡野洲町小篠原  map:http://yahoo.jp/21rYc2

現 状:山林

区 分: 平山城(標高140m)

遺  構 : 曲輪・竪堀・腰郭・

築城者:澤弾正少弼清光

築城期:永禄年間

初城主:澤弾正少弼清光

標 高:140m 比高差40m

目標地:桜生史跡公園

駐車場:桜生史跡公園(国道沿い空きスペース)

訪城日 : 2013.11.22・2016.12.8

 

お城の概要

桜生(さくらばさま)城の北北東270m程の国道8号線沿い東側丘陵上に位置しており、東山道を見下ろすことが出来る。
細い東西方向の尾根上を削平し、東から西に三段の郭を連続させている。

東端に巨石があり城外の急斜面となるが、その先が土取りで破壊されており、堀切等の遮断施設の存否は不明。

なお、北東面に竪堀が入れられている。
全体的に遺構は、風化が進んでいるのが遺構は残る。

お城の歴史

桜生城の死角を補い街道監視の砦として機能していたと考えられているが、詳細については不明である。

桜生史跡公園の国道8号線添い(空きスペースに駐車し)

 

国道8号線を横断、の東側から入城した。

尾根まで、直登しました!

尾根頂部の出城

東側古墳の巨岩

下山します。

山麓館か?

 

大岩山古墳(日吉神社の裏山)

                出城の西山麓 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


夕日ヶ丘城(向山城) 近江国(野洲)

2016年12月08日 | 平山城

 

お城のデータ

別  名 : 向山城

所在地 : 野洲郡野洲町大篠原成橋 Yahoo!地図http://yahoo.jp/tQqeZ7

築城年 :文明年間(1469~87)

築城者: 田中四郎右衛門・奥左門守之」とあり

改築者:馬淵氏

形 式 : 平山城

標 高:146m   比高差:40m

遺  構 : 竪堀・櫓台・土塁・廓・竪堀・堀切

訪城日 : 2016.12.8

お城の概要

夕日ヶ丘城は、大篠原成橋集落の北西にある向山の夕日ヶ岡と呼ばれる三つのピークを持つ独立丘陵の中央ピーク上に位置している。周辺には、星ヶ崎城、小堤城山城、上永原城などが2~3km程の距離で所在している。

 中央ピークの東側鞍部から西に向け登って行くと、山頂部が北に張り出た所に取り付く。その斜面には、この城の見所である畝状竪堀が設けられており、竪堀の間を抜け不明瞭な堀切を経て、北東の郭に入る。北東側の中央には、方形土壇が築かれており、櫓が設けてあったと思われ、北東や南東の郭をはじめ四方への睨みを利かせている。北東土壇と中央土壇の間には、四方を土壇と土塁で囲繞された郭、中央土壇の南西側に削平地、その北西側一段下に腰郭、南西端が墳丘の土壇となっている。墳丘土壇の西側鞍部は堀切で遮断している。

いずれの遺構も不明瞭であるが、織田信長軍の破城を受けたのではないかとされている

歴   史

「鏡山の西入日岡ニ城ヲ築キ 田中四郎右衛門・奥左門守 之」とあり、これは大篠原字向山の向山城(従来夕日ヶ丘城等と呼んだ)であり、また、古絵図には「入日岡 田所殿屋敷跡」と記されている(大篠原共有文書)が、詳細については不明である。

六角佐々木氏重臣馬淵氏の城と伝わる

馬淵氏は、佐々木定綱の五男定広にはじまるが、夕日ヶ丘城がいつごろ築かれたのかは明らかでない。

馬淵氏は、南北朝時代には野洲郡の郡奉行に任じられており、古くから篠原周辺に勢力をもっていた。夕日ヶ丘の名は、南東2㎞ほどのところにある、向山城の別称入日ヶ岡城に関連したものとも推測される。向山城は文明年間(1469~87)の築城とされているため、夕日ヶ丘城もその前後に築かれたものとも推測される。

  山麓の向山神社は、永正四年(1507)に馬淵山城守宗綱によって再建されたと伝わるため、このころまでには、城も築かれていたのではないかと考えられる。

 宗綱の娘は、蒲生定秀に嫁いだとされる。宗綱は、永禄十一年(1568)の信長上洛戦で戦死したとされているが、定秀の生年を考えると、不可能ではないが相当な高齢で戦に臨んだものとみられる。

宗綱とその子兵部少輔建綱は、永禄十年(1567)の「六角氏式目」に連署している。           

式目が制定されるきっかけとなった同六年(1563)の観音寺騒動では、元家臣の在地領主永原氏が六角氏に抵抗し、「篠原上の城」と同「下の城」に立て籠もった。六角義賢は、永原氏制圧のために星ヶ崎城へ入ったが、このときの馬淵氏の動向については詳らかでない。

一説には、馬淵父子も離反したともいわれるが、いずれの側にあっても、夕日ヶ丘城は前線の城の1つとなったものと推測される。
 

 信長上洛後の夕日ヶ丘城および馬淵氏については詳らかでない。

『日本城郭大系』には、元亀元年(1570)に馬淵甲斐守秀信が弥勒寺城や岩倉城に拠って信長に抵抗したものの、敗れて滅ぼされたとある。

このときまで夕日ヶ丘城が存続していたのか、城で戦闘があったのかなど、詳細は不明である。

 

鉄塔から三上山

北側畝状竪堀(シダで良く解らないが)

主郭部の郭(平削地)と低土塁

 曲輪の削平状態は良いとはいえず、城域の判断は難しいが、南北に延びる北尾根に2本、南尾根に1本ある堀切が城域の北限と南限か。その他に竪堀が3本確認できる。(古墳上の築城なので、又近世ハイキングコースや里山整備の実施され改変されたカ?)

東側竪堀物見櫓か(古墳か?)

十八号古墳

明治期の村誌に「馬淵氏の倉庫なり。今猶紅腐の米あり。」と記されているそうです。

堀切

駐車場可


 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、日本城郭体系

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


連続講座「近江の城郭」第1回 水口岡山城跡

2016年11月20日 | 平山城

「有戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第1回
水口岡山城跡

水口岡山城は羽柴秀吉の家臣中村一氏が築いた城です。当時、秀吉の最大の脅威であった徳川家康に備え、東海道を望む山上に築かれました。また、秀吉政権による近江支配の拠点城郭として、中世、大名権力を排除して自治を行っていた甲賀地方を掌握するための城でもありました。

最近甲賀市教育委員会によって水口岡山城跡の発掘調査が行われ、これまで知られていなかった実像が明らかになりつつあります。

今回の講座では、水口岡山城跡を甲賀市教育委員会文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

1.日時:平成28年11月20日(日曜日)9時45分~15時25分

  • 水口中部コミュニティセンター前集合 ※甲賀市水口町八坂7-4 近江鉄道水口石橋駅下車徒歩5分
  • 近江鉄道水口石橋駅解散

2.場所

  • 講義:水口東部コミュニティセンター(甲賀市水口町神明3-20)
  • 現地見学:水口岡山城跡・水口岡山城城下町跡

3.行程

  • 水口中部コミュニティセンター→水口東部コミュニティセンター(講義・昼食)→水口岡山城跡→水口岡山城城下町跡→近江鉄道水口石橋駅
  • 全行程約5km※山道あり

4.主催:滋賀県教育委員会

5.協力:甲賀市教育委員会

6.講師

  • 講義「甲賀郡中惣の終わり」:畑中英二(滋賀県教育委員会文化財保護課)
  • 現地探訪:甲賀市教育委員会歴史文化財課専門職員

7.定員:60名(事前申込制)

8.参加費:200円(水口岡山城跡ブックレット代)

 


下山城  近江国(愛東)

2016年09月04日 | 平山城

近年、地元の住民が発見した城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知群愛東町)百濟寺本町 map:http://yahoo.jp/L5i6_G

現 状:日吉神社の鎮守森

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:

遺 構:廓・土塁・

目標地:日吉神社

駐 車:日吉神社公民館に駐車

訪城日:2016.8.31

お城の概要

湖東三山百済寺の参道脇の日吉神社の鎮守森が城址で、詳細不明。


お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「愛知郡 下山本村 此所ニ公儀御代官増島左内ト云人居住セシ由、_今其宅跡残存テリト云」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 百斎寺 住 佐々木隋兵小倉源氏 宮本右平衛」の名が見える。

 \\\\\\\\\\\\\\\『信長公記』巻六-五、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事\\\\

 守山を出た信長公は百済寺(近江・愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(近江・愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

\\\\『信長公記』巻六-五、百済寺伽藍御放火の事\\\\\

◆元亀4年(天正元年、1573)
「是より直に百済寺へ御出で、二三日逗留これあり。鯰江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。攻衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮、仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候。近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様目も当てられず。其日岐阜に至って御馬納れられ候き。公儀右の御憤を休められず、終に天下御敵たるの上、定て湖境として相塞がるべし。其時のために大船を拵え、五千も三千も一度に推付け越さるべきの由候て―」

また、日吉神社の由緒書には、明応、元亀の年代に火災に遇い、後土御門天皇の御論旨によって再興した。しかしその後信長の兵火に罹ったが天正12年佐和山城主堀秀政によって再復した。慶長7年徳川家康が、又、寛文3年井伊直孝が祭祀料を寄進している。

御由緒
聖徳太子百済寺開基のとき守護神として高皇産霊神、瓊々杵尊の2神を奉斎したのが創祀と伝えられ、百済寺が天台宗に改宗したため天養又は建暦の年間に日吉大神をも勧請した。
明応、元亀の年代に火災に遇い、後土御門天皇の御論旨によって再興した。しかしその後信長の兵火に罹ったが天正12年佐和山城主堀秀政によって再復した。慶長7年徳川家康が、又、寛文3年井伊直孝が祭祀料を寄進している。
今の社殿は万延2年に造営されたもので、明治以後山王十禅師を日吉神社と改め明治9年村社に列せられ、同41年神饌幣帛料供進指定となった。

参考資料:『淡海国木間攫』、『佐々木南北諸氏帳』、日吉神社由緒書、『信長公記』
本日の訪問ありがとうございす!!

岡屋城 近江国(竜王)

2016年05月26日 | 平山城

岡屋城

お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町岡屋  map:http://yahoo.jp/i3AkMm
現 状:山林(山腹)
区 分:平山城
築城期:
築城者:
遺 構:土塁・廓・竪堀・
目標地:善正寺・吉祥寺・岡屋口交差点
駐車場:善正寺の近くの駐車場
訪城日:2016.5.22
お城の概要
 岡屋集落の南の小山を「じょう山」と呼ぶ、その麓に「城ノ腰」がある。しかし城跡に関する伝承は特にない。「じょうの山」の東の小山には行者さんの小祠が祀られていて、そこに東西15m南北10m程の平場が認められ、中腹にも平削地(廓の敷割り)が残存する。城郭に遺構とも考えられる。(滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎の城)・・・岡屋城)
 
 竜王町岡屋口交差点(県道165号線)の西側の独立丘山の中腹に、城郭遺構は残る。・・・が、その西側は大きく削り取られてしまった。岡屋集落の南端の善正寺への南参道の西の竹藪にも城郭遺構のような土塁らしきものがある。・・・善正寺の南側一帯に独立丘地で、岡屋城が存在した可能性を残す。
頂部に存在した行者堂は、県道165号線の平成七年道路拡張工事で竜王小口の観音寺に移築され今は、石の祠と灯篭・由緒書碑・石段が残る。

お城の歴史
 岡屋に修験行者信仰が始まった縁起は、伝承によれば、修験道山岳仏教が関西を中心に布教され岡屋にも信奉者が増え、小字東畑の丘陵頂上に石室造りのお堂が建立され行者尊像が勧請せれたのは平安時代(1190)前期とされ、それ以来「南若連中」が結成され有志が行者講を取り組んでいる。
                     その行者講も、近年しばらく絶えていました。しかし、平成19年から住職に着任した現・観音寺住持(吉田叡禮方丈)が熊野修験道を伝承していることから、信徒の方々の要望により、平成21年、小口、岡屋、山中、薬師、西川、田中の六在所合同入峯として甦りました。7月25日に行われた初回の入峯では40名の有志が集まり、かくも多くの方々と共に大峰山の霊気に触れることができましたことは、まことに法幸の至りです。
さらに、この合同入峯が円満に成就したことで、今後は「竜王行者講」として継続していくことと相いなりました。更なる発展を期待しております。この竜王行者講が毎年継続されていけば、将来きっと竜王町の歴史に刻まれることとなるでしょう。
       
 善正寺南参道       
善正寺     

吉祥寺
                 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城) 
 本日の訪問ありがとうございす!!

下戸山城   近江国(栗東)

2016年05月20日 | 平山城

下戸山城

 

お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)下戸山  map:http://yahoo.jp/drmJ1S
現 状:山林
区 分:平山城
築城期:正平年間(1346~1370)
築城者:青地氏
城 主:青地駿河守重頼が居城
遺 構:土塁・廓・敷割り・城道
標 高:127m 比高差:7m
目標地:小槻大社・下戸山宮谷バス停
駐車場:路上駐車http://yahoo.jp/B0xZ_V
訪城日:2016.5.19
お城の概要
 下戸山集落の丘陵城で、小槻大社の東に丘陵林が残存する。
周囲に新興住宅の開発が激しく、旧集落と田・畑と新興住宅の混在する。丘陵は削られ宅地開発やニュータン化進むが、幸い城跡は、小槻大社や、旧集落と田畑の内で、しばらくは消滅はなさそうだが、城址の表示板や説明板も無い(消滅の可能性は残る)
お城の歴史
 正平年間(1346~1370)に、青地駿河守重頼が居城したが、詳細不明。
小槻大社の由緒に「康永2年(1343)4月には青地重頼によって四脚門が造営された」と記す。

                         

小槻大社へ                     此処に路上駐車http://yahoo.jp/B0xZ_V
小槻大社(おつきたいしゃ)は、
滋賀県栗東市下戸山にある神社。式内社で、旧社格は郷社。神紋は「下り藤」「真向の兎」。別称として「小杖社(おづえしゃ)」や「小杖宮」、「小杖大明神」とも。

創建 

社伝では、古代に栗太郡(現在の草津市・栗東市一帯)の豪族の小槻山君(小月山公)が、祖神として於智別命を祀ったのが創祀とする。

小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には下戸山古墳・地山古墳・岡遺跡(栗太郡衙跡)が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は貞観15年(873)に亰に居を移し、のち小槻氏(菅務家)として朝廷に仕えた。

概史

国史では「小杖神」「小丈神」「少杖神」などの神名で、貞観5年(863)]に神階が従五位下、貞観7年(865)に従五位上、延喜11年(911)]に従四位下に昇叙された旨が記されている。延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では近江国栗太郡に「小槻大社」と記載され、関係社の小槻神社(草津市青地町)とともに式内社に列している。また、平安時代の11世紀初頭の作になる木造男神坐像2躯(国の重要文化財)が現在に伝わっている。

小槻氏が中央に移ったのちは、付近に拠点を持つ 青地氏の崇敬を受けて社頭が整備され、弘安4年(1281)10月に青地基氏によって現在の本殿内陣の宮殿が新造されたほか康永2年(1343)4月には青地重頼によって四脚門が造営された(非現存:棟木のみ本殿の力棰に転用)。『園太暦』によれば、康永2年12月には青地重頼(源重頼)の申請によって正一位の極位が授けられている。その後、永正16年(1519)には青地元真により現在の本殿(国の重要文化財)が再建された。しかし青地氏は、戦国時代に主家の佐々木氏(六角氏)の衰退とともに没落する。

江戸初期には、慶長13年(1608)に膳所藩主の戸田左門から田の寄進があり、以後も黒印により安堵された。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア、『日本城郭大系』11。 

本日の訪問ありがとうございす!!