八幡堀
八幡堀
城下町を見学することで城と城下町が一体となった八幡堀
1585年 18才で近江国43万石を与えられ八幡山城を築城、城下町八幡を開く。
豊臣秀次の八幡山城居城のもと、城下町が栄える原因となった町の一大動脈です。
近江商人の発祥と発展、また町の繁栄に八幡堀は大きな役割を果たし、江戸時代後期には近江国において大津と並ぶ賑わいを見せたといいます。昭和初期までは、常に町の人々の経済・流通路でしたが、戦後は陸上交通の発展によって廃れました。堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子をよく伝えています。日牟禮八幡宮の大鳥居をくぐったところに、堀に白雲橋がかかり、橋からは、かつて全国各地から送られてきた物産を一時保管した土蔵が見られます。近年になって、観光名所として整備され、船着き場などが復元されました。
オレンジが秀次跡、黄色が家臣団館跡
大手道の秀次屋敷跡の虎口の石垣
大手道の秀次屋敷跡の虎口の石垣
豊臣秀吉の遺構の八幡山城や八幡堀が、破壊されず現在も残存するのは、江戸幕府の天領であったから!
お城のデータ
所在地:近江八幡市宮町 map:http://yahoo.jp/tW9Zhk
区 分:居館
現 状:山林・公園
築城期:織豊期 天正13年(1585)
築城者:羽柴秀次
標 高:130m 比高差:35m
遺 構:石垣・曲廓・土塁・虎口
目標地:八幡公園
駐車場:近江八幡市図書館
訪城日:2011.12.17
お城の概要
八幡山城主の山麓居館。八幡公園から少し登った場所に竹林と化した館跡が残っている。石垣は崩壊している箇所も多いが概ね良好に残る。居館跡はあまり整備されておらず、竹林のために昼なお暗い場所である。
晩年の秀吉の蛮行の犠牲者となり、その行いを正当化するために殺生関白という汚名まで着せられた秀次は悲運の人であると思う。合戦上手ではなかったが、小牧・長久手の合戦以外では秀吉の名代をそつなくこなしているし、近江八幡の城下町を見ていても見事な町づくりを行った為政者だと思う。秀次の悲劇を思うと静かで美しい街並みも哀しく見える。
歴史
天正13年(1585)に羽柴秀次は八幡山城を築いた。織田信長の安土城に倣って築かれた山城であり、麓の居館も真っ直ぐに大手道が伸びる両側に家臣団の屋敷が配置された安土城の大手道を模した設計であり、その突き当りに高石垣で構築された秀次の居館が築かれていた。
青年武将であった秀次は琵琶湖から水を引き八幡堀を廻らせ、安土の城下町をそのまま移転させ、碁盤の目のような町割りを行い城下町を建設した。八幡山城下は賑わい、多くの商人たちが集う活気のある町に発展したようだ。近江商人発祥の地として今に残る美しい町並みは秀次時代の産物とも言える。秀次の栄耀栄華は短かった。秀頼が誕生すると秀次は秀吉にとって目障りな存在となってしまい、あらぬ嫌疑をかけられた挙句に文禄4年(1595)に自刃させられ、妻妾たちも非業の死を遂げた。八幡山城は廃城となり秀次の夢の跡は苔むした石垣が残るだけとなった。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました