お城のデータ
現 状:森林
区 分:山城
築城期:南北朝期 嘉禎元年(1235)
築城者:佐々木信高
城 主:佐々木信高
標 高:220m 比高差110m
遺 構:土塁・竪堀・畝状竪堀・曲郭・堀切・説明板
城 域:1000m×800m
2004年(平成16年)2月27日、「清水山城館跡」は、国に史跡に指定
目標地:新旭スポーツ公園
駐車場:新旭スポーツ公園駐車場
訪城日:2013.10.23
お城の概要
森林スポーツ公園から山林に入り、林道を経て約25分で山頂の主曲輪に着く。
この間、清水山遺跡屋敷跡や林道脇に堀切に観られ、ただひたすら登る山城と違い、楽しみながら登ることができる。
(林道の為に遺構が壊されており、残念!)
清水山城遺跡は、佐々木越中氏の本城と伝えられています。発掘調査で城の主郭(中心地)から、住宅風の大型礎石建物跡が確認され、生活をうかがわせるような遺物が出土しています。
発掘調査後、公園整備され、礎石建物跡を身近に見ることができます。 この山城の南側に広がる丘陵には、城主、一族衆、家臣などの屋敷跡が残っています。(清水山遺跡) また、山麓には、館跡である井ノ口館(本堂谷遺跡)や館跡であったと考えられる御屋敷や犬馬場の地名が残っている地域があります。
これらの地域をすべて含めると東西0.8km、南北1.0kmを測る広大な範囲となり、滋賀県下でも有数の一大ゾーンが形成されていたものと思われます。
鎌倉時代から室町時代にかけて高島郡の中・南部を支配していた高島七頭の惣領家にふさわしい規模といえます。
主曲輪はきれいに整備され、天気の良い日には琵琶湖に浮かぶ竹生島や対岸の湖北、湖東を一望できる景色は素晴らしいの一言に尽きる。
主曲輪を中心に三方に延びる尾根筋には、南東尾根の曲輪群、南西尾根曲輪群、および北尾根曲輪群と曲輪が配されている。
また、主曲輪の東側斜面には虎口部の守りを強化するように配置されている畝状の竪堀が非常に特徴的である。
この清水山城は山頂部だけでなく山麓にも多くの遺構・曲郭群が残されている、往路は林道を、復路は林道と交差しながら残っている山道を、清水山城の規模の大きさを実感できる。
なお、清水山城を訪れる際は、南山麓の井ノ口館を同時にみられることをお薦めする。
大手道
畝状竪堀
歴 史
清水山城は、別名日高山城とも比叡谷城ともいわれ、嘉禎元年(1235)に高島郡田中郷地頭職佐々木高信が築いたと伝えられている。
その後、高信の嫡流高島氏(一名越中家)が、高島七頭の総領としてこの城に拠って高島郡を統治した。その後、高島氏は、高島、平井、朽木、永田、横山、田中、山崎(能登)の七家に分かれ、高島七頭(たかしましちがしら)と呼ばれるようになった。
また、清水山城の南東斜面には加賀殿、越中殿といった地名が残されている。
清水山城は平成16年2月27日、国史跡に指定されている。
嘉禎元年(1235年)佐々木高信が築いた。子孫は高島氏(高島越中守)を称し、代々治めた。元亀3年(1572年)織田信長の高島郡攻略により落城したと推定されている。
畝状竪堀
畝状竪堀
主郭の虎口
コイワカガミ!オオイワカガミ!
二の郭
三の郭の間の大堀切
一部紅葉が!
主郭と二の郭の堀切(主曲輪南西尾根の堀切)
参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、説明板
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。