城郭探訪

yamaziro

飯浦(はんのうら)山城 近江国(木ノ本・余呉)

2016年10月26日 | 古戦場

賎ヶ岳への登山口の標識。

「飯ノ浦切り通し」

お城の歴史

『余呉庄合戦覚書』(余呉物語)には、
・飯浦山城[木之本町]
 天正11年4月20日の条「一所ニ踏コタヘ、飯之裏山峰堀切ヘ寄合」と記す。

堀切の土橋CIMG2109.JPG

飯ノ浦・塩津切通しへ

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の『川並村中伝書』の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

塩津浜

 賤ヶ岳城(砦)から、尾根道を北西に下りると、明らかな堀切があり、その後はなだらかな雑木林が続き500mほどで、大きな飯浦切通しに出る。木之本町飯浦と余呉とを結ぶ旧道の峠で、まさに大きな堀切となっている。北からの柴田軍の侵攻を食い止める要害となっている。(「近江城郭探訪」県教育委員会編)
  • 天正11年(1583年)3月12日、柴田勝家軍に対抗すべく、羽柴軍は賤ケ岳、田上山を中心に陣城群。夜を徹して作業が進められた。賤ケ岳砦には、桑山重晴、羽田長門が守備した。
  • 同年4月20日、佐久間盛政軍が大岩山砦を落とし、賤ケ岳を守備する桑山重晴と対峙した。
  • 秀吉は20日午後2時、大岩山陥落の報を聞き、1万5千の部隊が13里(約52km)を二時半(5時間)で大返し。夜半までに全軍が木之本田上山に着陣。
  • 4月21日午前2時頃、田上山を降り、黒田観音坂を経て払暁盛政軍を攻撃。盛政は退却し余呉湖西の権現坂あたりに至る。あわせて盛政軍の退却を援護していた柴田勝政軍も退却すると、秀吉は近侍の若武者に勝政軍への突撃を命じた。賤ケ岳七本槍の活躍が展開した。
  • 七本槍とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、片桐旦元、糟屋武則、脇坂安治で、秀吉から感状と恩賞をもらったが、7人以外にもあと2人いたとか。桜井佐吉と石河兵助である。9人であったものが七本槍となったのは、江戸時代後世の人々によって名づけられたらしい。
  • 秀吉側の急迫を受けた柴田軍は次々と潰走した。この時、権現坂の背後の茂山砦にいた柴田方の前田利家は兵をまとめて塩津方面に下り、同時に不破勝光、金森長近も前年の秀吉との密約を履行して戦線を離脱した。
  • 勝家本隊は余呉町今市の狐塚あたりに南下し、秀吉の攻撃を防いでいたが、ついに、近臣の意見を入れて北陸へ落ちていった。
  • 賤ケ岳の合戦後、廃城となった。(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)

参考資料:『余呉庄合戦覚書』・『川並村中伝書』・「近江城郭探訪」(県教育委員会編)・(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)

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