城郭探訪

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尼子城 近江国(甲良) 

2012年07月16日 | 平城

 戦国大名尼子氏(出雲)の発祥の地

今から約七百年前に滋賀県山東町清滝に生まれた(1296)道誉は、四十一歳のとき、甲良町勝楽寺に移住し、城を築き、鎌倉幕府の滅亡と南北朝・足利尊氏の室町幕府擁立に大きく関わり、その知将として活躍した異色の武将である。京極家は鎌倉幕府執権北条高時の側近として仕え、重用されていた。しかし、足利尊氏が後醍醐天皇(南朝)に応じて鎌倉の北条に兵を挙げるや(1334)道誉は、尊氏につく。以後、道誉は足利氏に仕え天下泰平の道を選び、彼の手腕は限りなく発揮される。 

 

道誉の甲良移住 佐々木道誉
   延元二年(1337)造営は、父祖の地伊吹山麓の柏原を捨てて甲良の勝楽寺に根拠を定めた。甲良への移住の理由は、京都の事変にすぐ応えるためであり、周囲は難攻不落の佐和山城や、大軍移動に困難な中山道摺針峠(彦根)を越える柏原より、はるかに理にかなっていた。第二に勝楽寺城は、城攻めには険しく、さらに前衛本隊を甲良の中心尼子に置き、左右の多賀、河瀬に攻撃型の道進部隊を配するなど戦闘体制に適した地でもあった。道誉はこれ以後、七十八歳(1373)に没するまで足利幕府の要人として、勝楽寺を根拠に活躍する。

 

バサラ大名の筆頭-道誉
   「婆娑羅」とは、室町時代の流行語で、遠慮なく振舞い、派手で傍弱無人なことをいう。この時代道誉はドンチャン騒ぎを好み、自由奔放でバサラ大名の典型といわれた。特に京都の妙法院事件は、有名である。道誉の部下がこの寺の紅葉の見事さに、思わずその枝を折ったところ門主に見つかり、部下は山法師に痛めつけられた。この報告を受けた道誉は、「わが入道の配下に手向かうとは、片腹痛し…」と自ら二百余騎を率いて妙法院に火を放ったのである。これは道誉の既成の権威に対するすさまじいまでの反骨心であった。
文化人道誉
   しかし、道誉はけっして無節操に傍若無人の振舞いをしていたのではない。一見、野放図に見えながら内乱期を通じての道誉の行動には、一本の筋が通っていた。それは、足利尊氏に対する強い忠誠であった。また、この日本人ばなれした人物-造営は日本の古典芸術、茶道、華道、能楽、連歌など出発点としての奥義を極めていた。歌集では、最初の連歌撰集「菟玖波集」には、道誉の八十一首が入り、彼の非凡さが伺える。「茶」の世界で道誉が選んだ茶器珍器の中には、近世になって信長や秀吉、また茶道の宗匠たちによって受けつがれた大名器があることも道誉の審美眼の高さを物語る。中世芸能の最も華やかなものに能楽と狂言がある。道誉は早くから猿楽能の保護者で、とくに近江猿楽には道阿などを支援し、歌舞の神秘さと幽玄さを特色とする高踏的な芸風を育てた。狂言の世界は、猿に始まり狐に終わるといわれる。「釣狐」の演技はまさに秘曲に値し、その白蔵主狐の伝説が勝楽寺に伝わり、狐塚も残り、道誉との関係が伺われる。バサラ大名道誉は、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。

道誉(1296~1373)

所在地:滋賀県犬上郡甲良町尼子

 

 昔、松宮大明神(まつみやだいみょうじん)と呼ばれましたが、明治5年(1872)に現在の神社名に改称しました。兵火で記録などが焼失し、いつごろの開基かはっきりわからりませんが、拝殿棟鬼板(とうきばん)や神輿(みこし)に佐々木神社の神紋(しんもん)と同じ四つ目が使われていることから、近江源氏(おうみげんじ)佐々木氏と関係の深い神社だと考えられ、甲良宗廣(こうらむねひろ)が現在の本殿を造営したと伝えられます。
 本殿横にある権殿はもとの本殿で、室町中期に火事で焼けた後再建された建物の一部といわれていますが、江戸時代初期の墨書が残っているため、その頃の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されています。建物の背が非常に高く、規模は小さいですがしっかりした造りです。また、直線的な屋根や神社の建物の配置などが、伊勢神宮によく似ているといわれています。

 

【尼子城の堀跡、殿城池(別名お園堀)】
尼子城は、京極家5代で室町幕府の重臣で「バサラ大名」として其の名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が甲良荘尼子村を領有し尼子氏と称した。
其の頃本家京極家の居城城楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です
嫡男出羽守詮久以後近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期京極家の有力連枝旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち一族家臣達は四散したと考えられるが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています。

 

 

 

 

 

 

館跡のある尼子の集落の西側には尼子氏一族の墓もある。 尼子の集落の中、細い道端に案内板と個人宅にありそうな庭の池のような堀跡が残っていた。

付近にお住まいの人によると、20~30年前に引っ越してきたときは、数メートルの深さの堀があり、それを埋め立てて住宅地にしたとのこと。
 今でも、住宅地の中には堀を埋め立てた部分は50~60cmほども低くなっている。


殿城池は、ありし日の尼子城の堀跡です。
昭和初期まで池の西、深さ4、5米で北側に湾曲した竹薮となった堀跡が続いていましたが戦後宅地に変貌しました。
村の東、玄翁堂襄の竹薮から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
お堀の水神様は落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。
又このとき、若く美しい侍女お園も姫の後を追って入水殉死したことを領民が憐れみいつしかこの堀を「お園堀」と呼び敬い親しみ護り続けて今日に至っています。
 尼子城の土塁があった所は尼子土塁公園として裏に家系図と案内MAP!

 

尼子土塁公園へは、お堂の横を進みます!

甲良三大偉人

在士で、藤堂高虎(城普請奉行)の出生の地とされる在士館跡が高虎公園として整備されている。

法養寺は日光東照宮の大棟梁甲良備後守宗廣(大工奉行)の出生の地。

犬上郡尼子は、尼子氏は佐々木京極氏の系流であり、先祖は京極五代高氏(道誉)の嫡子高秀の四男・高久が、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。

佐々木道誉(1296~1373)勝楽寺蔵 

尼子氏は京極高秀の子高久が犬上郡甲良荘尼子郷を与えられて尼子氏を名乗った事に始まる。

 館跡のある尼子の集落の西側には尼子氏一族の墓もあるらしが?。 

尼子高久の次男尼子持久は出雲に下向し、尼子経久の時代には出雲国富田城を居城とした戦国大名となった。一方近江の尼子氏は京極氏の衰退とともに四散したといわれる。

 尼子氏は佐々木京極氏の系流であり、先祖は京極五代高氏(道誉)の嫡子高秀の四男・高久が、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。

 高秀には8人の男子があった。長男は高詮(たかのり)と称して京極家七代目を継いだ。
 二男高経は佐々木宗家六角氏頼の養子となつたが、のち離籍された。三男は五郎秀満と名乗り左衛門尉に任じられたが、応永6年(1399)大内義弘の反乱にくみし、消息不明となつている。

 四男・高久は左衛門尉に任じられ、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。これがそもそも尼子氏の元祖である。
 その高久の長男詮久が家を継いで、江州尼子の氏祖となり、高久の二男持久は山陰の出雲国に移つて雲州尼子氏の元祖となった。

山陰の雄 尼子氏発祥の地

戦国時代に陰陽八ヶ国の守護を務めた尼子氏は近江源氏佐々木氏の一族で、バサラ大名の異名を持つ佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。

 

佐々木氏の代表紋は四目結

 家紋  平四つ目結  尼子氏は佐々木氏の一族平四つ目結  尼子氏は佐々木氏の一族は四目結紋。しかし、尼子氏はそのほかに花輪違紋紋も用いた。

花輪違紋は、佐々木氏の支流である出雲の佐々木義清の一門が用いた。塩冶・富士名・隠岐などの諸氏である。尼子氏も出雲に移動してこの紋を用いるようになったものであろう。
 目結は「メユイ」と読み、古代の染め方の一種である纐纈染めのことである。江戸時代には鹿子染とか鹿子斑ともいわれた。いわゆる、布を糸で括って染料に浸すと括った部分だけが目のように白く染め残る。つまり、目結とは白く斑に染め残った模様のことである。
 これを家紋に用いたのは、宇多天皇の後裔を称し、近江源氏と呼ばれる佐々木氏である。佐々木氏は近江国蒲生郡佐々木庄を名字の地とし、源頼朝の挙兵に際して最初から加わり、大活躍をしたことから世に顕われた。また、佐々木氏は佐々貴神社を氏神として崇敬し、四目結の結を一族団結のシンボルとして家紋に用い繁栄してきた。
 源平合戦における宇治川の戦で、梶原景季と先陣争いを演じた佐々木高綱、室町幕府草創期に「バサラ大名」として名を馳せた佐々木道誉などの名は世に知られているところだ。京極氏と近江国を南北に分け、戦国時代に近江で気を吐いた六角氏なども佐々木氏の一族である
 
花輪違 出雲佐々木氏のそれは花輪違。

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