城郭探訪

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本能寺の変~山崎の戦い

2016年02月15日 | 古戦場

4月3日辛卯(1582年4月25日)

  • 信長、六角次郎を匿ったとして恵林寺を焼き、国師快川和尚を焚殺する。

4月24日壬子(1582年5月16日)

  • 信長、細川藤孝らに備中高山に楯籠る小早川隆景の討伐出勢を命じる。光秀、その旨を伝達する。【明智光秀のすべて】

5月4日辛酉(1582年5月25日)

  • 正親町天皇、勅使を遣わして信長に将軍任官・幕府開設を勧めるが、信長応えず。

5月7日甲子(1582年5月28日)

  • 秀吉、毛利方の清水宗治を高松城に囲む。
  • 信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、信孝に讃岐、三好康長に阿波を与えることを約す。

5月14日辛未(1582年6月4日)

  • 先の甲斐征討の論功行賞で家康は駿河を、穴山梅雪は旧領を安堵されたが、その礼を述べるために近江に入った。惟住五郎左衛門(丹羽長秀)が宿舎を準備し接待した。【信長公記(桑田)】(家康の安土伺候は、自らの積極的な意志ではなく、信長の懇請によるものであったとされる
  • 織田信忠が上洛の途中、ばんばに立ち寄り暫く休息した。惟住五郎左衛門が酒肴の接待をする。信忠はその日の内に安土へ出発。【信長公記(桑田)】(信忠は、四国の長宗我部元親討伐のため、大阪に向かう途中)

5月15日壬申(1582年6月5日)

  • 家康一行は安土に到着。【信長公記(桑田)】
  • 信長の指示で、宿舎は大宝坊とし接待のことは惟任日向守(光秀)に仰せつけられた。光秀は京都・堺から珍しい物を取り寄せるなどして、15日から17日までの3日間、非常に念の入った接待であった。【信長公記(桑田)】(主要な家臣が各地に敵を抱えて不在であったため、休暇中の光秀が饗応役を命じられた一説には、家康が光秀を所望したとするが、不明
  • 秀吉は毛利方の将清水宗治の守る備中高松城を囲み、足守川を堰止めて水攻めすることにした。そこへ毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の軍勢が高松城援護に駆けつけるという情報がもたらされた。
    信長は「この度、毛利方は間近にまで陣を進めるということである。これは天の計らいであるから、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる、またとない機会となるであろう」と述べて、堀久太郎を御使として羽柴筑前方へその旨を伝ると共に、惟任日向守・長岡与一郎(細川藤孝)・池田勝三郎・塩河吉大夫・高山右近・中川瀬兵衛は先陣として出勢するよう指示し、すぐさま御暇(現在担当している任務を解くこと)を下された。【信長公記(桑田)】 

5月17日甲戌(1582年6月7日)

  • 光秀は安土より坂本に帰城し、それ以外の面々も帰国して、出陣の用意に取り掛かった。【信長公記(桑田)】(光秀の家康饗応が何日までの予定であったのかが不明で、そのため、「役を終えてから帰城した」「途中で役を免じられた」、という二つの解釈がある。後者は、それが光秀の面目を潰す結果となり、決起の原因となったという説の根拠に挙げられている

5月18日乙亥(1582年6月8日)

  • 光秀、信長から家康供応の内容を叱責され、森乱丸ら小姓に打擲される。【明智軍記】【明智光秀のすべて

5月19日丙子(1582年6月9日)

  • 信長は、家康一行の道中の労をねぎらうために、安土山惣見寺において幸若八郎九郎大夫の舞や丹波猿楽・梅若大夫の能を舞わせることにした。桟敷では近衛・信長・家康・穴山梅雪・長安(楠木政虎)・長雲・友閑・夕庵(武井爾云)、土間では御小姓衆・御馬廻・御年寄衆・家康公の御家臣衆などが見物した。【信長公記(桑田)】
  • 光秀、家康供応役を罷免される。【明智軍記】【明智光秀のすべて】

5月20日丁丑(1582年6月10日)

  • 惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷玖右衛門の四人に家康接待の用意を命じた。高雲寺御殿で、家康・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、その外家老の衆に食事を出し、忝けないことに信長自らも膳を共にして、敬意を表した。食事が済むと家康と供の人達を残らず安土城に案内して、帷を贈るなど、大変心の籠った接待であった。【信長公記(桑田)】

5月21日戊寅(1582年6月11日)

  • 家康一行、上洛。
  • 信長は、家康が上洛し京都・大阪・奈良・堺をゆっくりと見物できるようにと、長谷川竹を案内役に、大阪での接待を織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門に命じた。このため二人は大阪に到着した。【信長公記(桑田)】(二人はすでに四国出陣のため大阪にあった)
  • 信忠は上洛し、妙覚寺を宿所とした。

     

5月26日癸未(1582年6月16日)

  • 惟任日向守は中国出陣のため坂本城を発ち、丹波亀山城の居城に入った。【信長公記(桑田)】(坂本に入ったのは17日で、この日までの10日間の消息がまったく不明)

5月27日甲申(1582年6月17日)

  • 光秀、愛宕山に参詣し籤を引く。【信長公記(桑田)】 

5月28日乙酉(1582年6月18日)

  • 光秀は西坊で里村紹巴・西坊行祐らと連歌を興行した。発句は惟任日向守。
    【日本古典集成】に依れば、([愛宕百韻])
      ときは今天(あめ)が下しる五月哉 光秀
      水上まさる庭の夏山 西坊
      花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
    【信長公記(桑田)】では、
      ときは今あめが下(した)知る五月哉 光秀
      水上まさる庭のまつ山 西坊
      花落つる流れの末を関とめて 紹巴
    であったという。
  • 百韻を神前に納め、光秀は亀山城に帰城。【信長公記(桑田)】

5月29日丙戌(1582年6月19日)

  • 信長が上洛、安土本城の留守番は、津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田中兵衛、二の丸の御番衆は、蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・佐久間与六郎・蓑浦次郎右衛門・福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛兵庫頭・鵜飼・前波弥五郎・山岡対馬守らに命じ、小姓衆二三十人(百五六十騎【当代記】)を召し列れての上洛であった。「直ちに中国へ向かえるよう用意をして、連絡があり次第出陣せよ」との命令で、そのため今回は供が(小姓衆を除いては)いなかった。【信長公記(桑田)】
  • 吉田神社の神主吉田兼和は信長上洛の迎えに山科まで出向いて数時間待った。午の刻(正午ごろ)から雨が降り出した。そこに森長定が出迎えは無用である旨を知らせて来たので急いで帰った。【信長襲殺】
  • 公家の勧修寺晴豊は信長上洛の迎えに粟田口まで迎えに出たが、出迎えは無用との知らせが入ったので帰った。【信長襲殺】
  • 信長は申の刻上洛した。【信長襲殺】
  • 長谷川秀一は家康一行の堺遊覧に同行していた。
  • 松井友閑が堺での家康一行接待の分担を決め手配した。家康一行は津田宗及宅で昼茶席の接待を受け、松井友閑宅に泊った。【宗及】【信長襲殺】 

6月1日丁亥(1582年6月20日)

  • 権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊は、正親町天皇と皇太子誠仁親王の勅使として、信長の上洛を賀すために本能寺に出かける。その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に対面するが、進物は受け取らないということで出さなかった。【信長襲殺】(この日、40人ほどの公家・僧侶が揃って本能寺を訪れている。そこで、信長秘蔵の茶器が披露されたという)(名物茶器を京都まで運んだのは、・・・家康をはじめ諸大や公卿を対象とした大茶会を催し、その場で名物茶器を披露せんとしたと考えざるをえない。【信長安土】)
  • 夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調議を究め、亀山から中国へは三草(山)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者ども(明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐)に先手を申しつく。【信長公記(桑田)】

6月2日戊子(1582年6月21日)

    (本能寺の変)
  • 老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、攝津国の皆道(街道)なり。左へ下れば、京へ出ずる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。【信長公記(桑田)】
  • 信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち(撃ち)入れ候。【信長公記(桑田)】
  • 是は謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところ、森乱(森長定)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。【信長公記(桑田)】
  • 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ御面堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て討死。【信長公記(桑田)】
  • 小河愛平、高松虎松、金森義入、魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎、菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松、山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松壽らの御小姓衆掛かり合い、懸かり合い討死候なり。この外、厩仲間衆の藤九郎・藤八・岩新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若・その倅の小虎若を初めとし二十四人が揃って御馬屋にて討死した。【信長公記(桑田)】
  • 御殿の内にて討死された衆、森乱丸、力丸、坊丸の三兄弟。【信長公記(桑田)】
  • 織田信忠、一旦は妙覚寺を出て本能寺に向かうが、下御所(二条城)に移り討死。【信長公記(桑田)】
  • 朝、家康一行は信長に合うため堺を出たが、「変」を知らせるため堺に向かった京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、一旦帰国することを決意。宇治田原に向かう。
  • 午後4時、瀬田城主山岡景隆は、光秀の安土進軍を阻止しようとして、瀬田の大橋を焼き払う。【明智光秀(高柳)】
  • 夕、光秀は坂本城に入った。【明智光秀(高柳)】
  • 備中に向かっていた細川藤孝・忠興父子は、但馬竹田(兵庫県朝来郡和田山町)で変報に接し、すぐに引き返した

6月3日己丑(1582年6月22日)

  • 光秀は近江・美濃の諸将に降誘を勧める。【明智光秀(高柳)】
  • 細川父子は丹後に戻り、忠興の妻であり、光秀の娘であった玉を、丹波三戸野の茶屋に移した。(既にこの時、細川父子は秀吉に対して、光秀の求めには応じないことを伝えていたようである)
  • 安土城の守将蒲生賢秀は、変報を聞き、信長の側室らを日野に移す。
  • 信楽で一宿した家康一行は、伊賀越えで伊勢に向かった。同行していた穴山梅雪は、家康一行に遅れて出発、途中、伊賀の一揆に殺される。
  • 柴田勝家、上杉方の魚津城を落とす。
  • 夜、光秀から小早川隆景に宛てた密書が奪われ、秀吉は、本能寺で信長が倒れたことを知る。(【武功夜話】には、細川藤孝からの密書によって、秀吉が「変」を知ったとある)
  • 深夜、秀吉、安国寺恵瓊を呼び、高松城主清水宗治の切腹と毛利領備中・美作・伯耆の譲渡を和睦の条件として提示し、信長の死を秘しながら、和睦を急ぐよう指示する。 

6月4日庚寅(1582年6月23日)

  • 光秀、近江・美濃の大半を平定する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 大和筒井順慶、光秀の援軍を山城に派遣する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 高松城主清水宗治が切腹、秀吉と毛利の和睦が成る。【明智光秀(高柳)】
  • 柴田勝家、「変」を知る。
  • 家康、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し岡崎城に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 上杉景勝、「変」の報を聞き、退却する柴田・佐々・森らの手から川中島や魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める。
  • 筒井順慶、光秀に援軍を送る

6月5日辛卯(1582年6月24日)

  • 光秀、安土城を占領し、財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 更に、阿閉貞征に長浜を、武田元明に佐和山城を攻略させ、占領する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀の軍に筒井順慶の援軍が合流する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 織田信澄は織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻められ自殺する。
  • 2:00pm、秀吉は暴風雨の中東上を開始。

6月6日壬辰(1582年6月25日)

  • 吉、備中高松から姫路城に到着(7日未明或いは8日早朝の誤りか)。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、安土城に入り、上杉景勝に使者を送って後援を依頼する。 

6月7日癸巳(1582年6月26日)

  • 光秀、安土に勅使吉田兼見と面会する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、摂津河辺郡開連寺に禁制を出す。【渡辺重雄文書】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉、未明に姫路城に到着(或いは8日早朝)。 

6月8日甲午(1582年6月27日)

  • 光秀、安土より坂本に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、摂津攻略のため安土を出発。先勢大津・山科に着陣。また、禁裏の使者派遣を受ける。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、上京し、銀子を禁中・諸寺に献ず。次いで、鳥羽に出陣する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、細川藤孝・忠興父子に書を与えて参加を望むが、父子応ぜず。【明智光秀(高柳)】 

6月9日乙未(1582年6月28日)

  • 光秀、未(2:00pm)に上洛し、使者派遣の礼として、銀子を禁中及び諸寺に献じ、京都市中の地子免除を布告する。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、配備の手配後、夕方、下鳥羽に出陣する。【明智光秀のすべて】
  • 光秀、丹後国宮津城にいた細川藤孝・忠興父子に手紙を送り、改めて助勢を依頼する。【細川文書】
    「御父子もとゆい御払候よし、もっとも余儀なく候。一旦我らも腹立ち候へども、思案候ほど、かようにあるべきと存じ候。然りといへども、此の上は大身を出だされ候て、御入魂希ふところに候事(一部)」【明智光秀(高柳)】
  • 筒井順慶は、秀吉上洛の情報を得て、河内出陣を中止し、居城大和郡山城に米・塩を入れ、籠城の準備を始めた。
  • 秀吉、浅井長吉を留守居役とし、一部を淡路洲本攻略に向かわせ、姫路を発し播磨明石に着陣する。

6月10日丙申(1582年6月29日)

  • 光秀、河内に出兵す。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、藤田伝五を筒井順慶のもとに派遣する。洞が峠に陣し順慶の参会を待つが、順慶は、同心できない旨を伝え、引き上げてしまった。【多聞院日記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】 

6月11日丁酉(1582年6月30日)

  • 光秀、下鳥羽に移る。筒井順慶の説得を諦める。急遽、淀城の修理・普請に掛かった。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 筒井順慶は、秀吉に応じることを使者を以って伝える。
  • 秀吉、摂津尼ケ崎に到着。大坂にあった織田信孝・丹羽長秀や、光秀の寄騎伊丹城主池田恒興・茨木城主中川清秀・高槻城主高山右近らに参陣を求める
  • 秀吉軍の一部は、山崎付近にまで出ており、勝竜寺で足軽同士が衝突、鉄砲の打ち合いがあった。
  • 岡崎の家康は、大雨のため出陣を延期する

6月12日戊戌(1582年7月1日)

  • 秀吉は池田恒興らと協議し、高山重友・中川清秀を先鋒とし、使者を大阪城に遣わして織田信孝・丹羽長秀の参陣を求める。秀吉、摂津富田に着陣。
  • 秀吉、摂津に攻め上り山崎付近に兵を出し、勝竜寺付近を焼き払う。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀は、秀吉の東上を知り、急ぎ山崎に集結し、天王山を占領しようとするが、既に、秀吉方の先鋒中川隊によって占拠されていた。止むなく、勝竜寺城に入り、守備を固める
  • 光秀、八幡・山崎より淀に引き退く。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】

6月13日己亥(1582年7月2日)(山崎の戦い)

  • 光秀軍は勝竜寺城を出、桂川支流の円明寺川に沿って布陣。総勢1万6千。
  • 秀吉軍に、昼頃、織田信孝らがに合流。山手(天王山側)を羽柴秀長・黒田孝高らの主力部隊、街道筋を高山重友・中川清秀・堀秀政ら、河手(桂川沿い)を池田恒興ら、予備(中央後詰め)は秀吉・信孝を配する。総勢3万5千から4万。
  • 申(4:00pm)頃、光秀軍山手先鋒の並河・松田隊が、天王山麓の先鋒中川隊を攻撃、戦端は開かれた。中川隊が防戦する間に、羽柴秀長・黒田孝高らが援護、並河・松田隊は敗れた。
  • 中央の高山隊に光秀軍の斉藤利三・阿閉貞征隊が猛攻をかける。このため高山隊は窮地に立たされるが、中川・堀隊が左翼から池田隊が右翼から明智軍の戦闘部隊を攻撃、斉藤・阿閉隊は後退する
  • 光秀軍予備の伊勢貞興・藤田伝五隊が右翼から、津田・村上隊が左翼から秀吉軍中央に向かい、一進一退の激しい攻防戦となった
  • 羽柴軍の後続部隊が戦闘に加入し、次第に戦力的な差が生まれ光秀軍は壊滅状態となり、7:00pm頃、光秀は退却を決意。光秀は勝龍寺城に兵7百余を引き連れ退いた。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉軍は敗走する明智勢を追撃・掃蕩し、大軍を以って勝龍寺城を包囲。
  • 光秀は、再起を図るべく溝尾勝兵衛ら少数の近臣と共に勝龍寺城を抜け出し、坂本城に戻る途中、小栗栖(醍醐)で土民に襲われ自殺する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】

6月

  • 細川藤孝、剃髪し名を幽斎に改める。

6月14日庚子(1582年7月3日)

  • 勝龍寺城は秀吉軍の攻撃を支えられず落城。
  • 明智秀満は、山崎の敗報を聞いて安土城を放棄、坂本城に移る
  • 秀吉軍の先鋒は丹波亀山に入り、亀山城を落とした。
  • 秀吉本隊は、光秀を追って近江に入り三井寺に陣取る
  • 家康、尾張鳴海に到着。先鋒の酒井忠次は津島に到着。

6月15日辛丑(1582年7月4日)

  • 秀吉軍の堀隊が明智秀満の入った坂本城を包囲。
  • 秀満は、国行の刀・吉光の脇差・虚堂の墨跡を蒲団に包み、目録を添えて寄手に呼びかけ、「此道具は私ならぬ事、天下の道具なれば、是にて滅し候事は、弥兵次傍若無人と思召すべく候間、相渡し申候」とて、送り届けさせたという。(名茶器平蜘蛛を壊して自殺した松永久秀とは全く反対のしわざである。【日本の歴史】)
  • その後秀満は、光秀の妻子及び妻(光秀の娘)を刺殺し、城に火を掛けて自殺する。

6月16日壬寅(1582年7月5日)

  • 秀吉・織田信孝らが安土に着陣。安土城は何者かの手によって焼け落ちていた。次いで秀吉は長浜に入る。丹羽長秀が佐和山城を陥れる。
  • 光秀の屍、本能寺に晒される。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】

6月17日癸卯(1582年7月6日)

  • 秀吉ら、光秀の首を本能寺に梟す

6月19日乙巳(1582年7月8日)

  • 家康は、秀吉の使者から叛乱軍平定の報告を受け、岡崎に戻る。

6月27日癸丑(1582年7月16日)

  • 柴田勝家・秀吉ら織田の宿老が尾張清洲城に会し、後継を秀吉の推す三法師(秀信)と定める。

7月11日丁卯(1582年7月30日)

  • 秀吉、細川幽斎に宛て「変」の際の態度を誉め、丹後国内の旧明智領を細川忠興に与える。

7月17日癸酉(1582年8月5日)

  • 秀吉、毛利輝元に山城山崎の築城のため、信長の葬儀を延引する旨報ずる。

9月12日丁卯(1582年9月28日)

  • 羽柴秀勝、信長の百日忌法会を山城大徳寺に行う。

10月3日戊子(1582年10月29日)

  • 正親町天皇、秀吉に綸旨を与え従五位下・左近衛権少将に叙任する。

10月15日庚子(1582年11月10日)

  • 秀吉、於次丸(信長の四男で秀吉の猶子)を喪主として山城大徳寺に信長の葬儀を行う。

11月2日丁巳(1582年11月27日)

  • 柴田勝家、前田利家を山崎城に派遣し、秀吉と講和する。

参考資料:【本能寺の変】年表 「天正十年~天正二十年」


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