城郭探訪

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連続講座 【第1回織田信長決死の脱出行~朽木城跡】 2013.8.24

2013年08月25日 | 平城

 元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つため敦賀まで出陣していた信長のもとに浅井長政離反の知らせが届きます。浅井・朝倉によって挟み撃ちにされる絶体絶命の危機に陥った信長は、急いで陣を引き払い京都へと脱出を図ります。この時信長が通ったルートが朽木を越える若狭街
道であり、朽木の領主朽木元綱がこれを案内しました。
朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れています。
今回の講座では、朽木に残る城跡等をたどり、多くの武将たちが通った朽木の姿を地元の専門家の案内で。

現地見学の出発式(参加者70名・スタッフ10名)

現地探訪石田敏氏(高島市文化財保護審議会委員・元朽木村史編集委員長)

朽木城(江戸期は朽木陣屋)の石積朽木城(江戸期は朽木陣屋)

朽木元綱

元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。

信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。

朽木資料館・朽木城跡→朽木市場→高島市文化交流施設やまびこ館(昼食・講義)→岩神館遺跡・旧秀隣寺庭園→朽木学校前

鯖街道・朽木市場

ヴォーリス建築

8/24は地頭盆のお供え

元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つため敦賀まで出陣していた信長のもとに浅井長政
離反の知らせが届きます。浅井・朝倉によって挟み撃ちにされる絶体絶命の危機に陥った信長は、急いで陣を引き払い京都へと脱出を図ります。この時信長が通ったルートが朽木を越える若狭街道であり、朽木の領主朽木元綱がこれを案内しました。

朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れていま
す。


今回の講座では、朽木に残る城跡等をたどり、多くの武将たちが通った朽木の姿を地元の専門家の案内でした。

高島市文化交流施設やまびこ館(昼食・講義)

講義「朽木を訪れた武将たち」松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)

元亀元年(1570年)、織田信長の朝倉攻めで浅井長政が裏切った時、信長は浅井の領地である湖東を避けて朽木村経由で帰郷しようとした時も元綱は信長を助け、後に家臣に取り立てられた。

地頭盆

興聖寺 金の鯱鉾・四ツ目結

名勝旧秀隣寺庭園

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

マグダレナ墓

幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った。同17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。

・岩神館遺跡

正面は山上に、西山城・野尻砦、山麓に朽木城(江戸期は朽木陣屋)


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