~積雪の黒川氏城~
甲賀織豊系傑作城郭入門 黒川氏城 現地見学会
内 容:城郭研究家による本格城郭見学入門講座
講 師:長谷川博美氏
主 催:米原文化協会城歩会
長谷川氏E-mail wwmy29831@maia.eonet.ne.jp
石垣�石垣城門�石段�石築地跡�横矢と櫓台�櫓群の配置�馬出し曲輪�翳し曲輪
行き止曲輪�竪土塁�井戸貯水槽�水の手曲輪�横堀配置�横掘千鳥の配置�掘切�土塁
甲賀の城�織豊の城�犬走り�帯郭�5間×8間外枡形�土橋21竪掘り21切岸 22喰違虎口
・所在地:甲賀市土山町鮎河(旧:甲賀郡土山町鮎河) map:http://yahoo.jp/QF1HG9
・築 城 :永禄年間(1558~1569) ・
・築城者:黒川与四郎
・初城主:黒川玄蕃佐
・標 高:430m 比 高:100m
・現 況:山林
・区 分:山 城
・遺構等:堀・土塁・石垣・堀切・石碑
・城 域 :220m×330m
・訪城日:2014.2.24
黒川氏城の築かれている山は比高50mほどの小山であるが、県道側は比較的斜度がきつく、県道9号線と県道507号線の交差点北側(左手)の駐車場前、黒川氏城へ登りやすい。
この黒川城は単郭方形の城砦の多い甲賀地方にあって、複郭で規模が大きい上、縄張りの複雑さでは近江の数ある城砦の中でも際だっている。
県道9号線沿いから黒川氏城へ。
縄張りで特徴的なことは横堀を多用している点にある。近江において横堀が観られる城砦は、甲賀地方の城館とは異例の黒川氏城の横堀は単に曲輪周囲に巡らせただけではなく、横堀を通路(堀底道)として使うことで敵を誘導、迎撃する横矢の計画的意図がみえ、戦術的に横堀を多用している。
また、甲賀地方は甲賀五十三家に代表され、あるいは「甲賀郡中惣」にみられるように、独立性の強い小豪族の集まりで、和田氏の城砦をとっても、小さな谷を囲むように和田城・和田支城といった単郭方形の小さな館城(やかたじろ)を幾つも築くパターンが多い。
一方、黒川氏城は主曲輪を中心とした求心性の強い曲輪配置をしており、甲賀武士とは違った権力構造をもった勢力によって築かれたカ、歴史的には甲賀五十三家の一家である黒川氏の居城。
ここで一直線に加工されたような石を見つけました。、祭礼に使ったものカ。
歴 史
永禄年間(1558~1569年)に黒川玄蕃佐がこの山に築いた城です。
今も頂上には四十間の方形(一間=約1.82m)の旧址があり、また、石垣、石段の一部、堀や屋敷の跡が残っています。
黒川氏は守護六角氏に属し、長亨・明応の頃(1487~1501年)にしばしば戦功をたてます。黒川久内は、長亨の乱(1487年)の功により黒川・黒滝を領し、以後子孫が世襲しました。(この当時は黒川城?)織田信長の上洛阻止に失敗した六角氏のために、家臣辻和泉を東国甲斐武田信玄応援の使者として派遣し、義賢の二男中務大夫賢永を甲斐へ下らせた。
黒川玄蕃佐に至り、黒川氏城を築城し山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を支配し、子の八左衛門が継承しましたが、天正十三年(1585年)に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除く地域は没収され城は廃城となりました。
天正十三年(1585)の甲賀破儀をもって改易されたが、後に再び本領黒河のみを食封として許された。しかし豊臣秀頼に属して、慶長十九年(1614)、大阪冬の陣に参軍したため領地を失った。
その後黒川氏の娘が紀州徳川頼宣の側室として綱教を生み幕下に列せられ、黒河村を復した。
主郭北虎口(主郭北側より)
主郭北虎口(主郭北側より)
主郭北虎口(主郭より)
主郭内
主郭東側・・櫓台
主郭大手の桝型虎口前の石碑
主郭
大手道最初の虎口
北側【黒川氏城】・・・(遠望 ウグイ川より)
北側 城道登り口(獣害フェンス外から)
黒川氏城現地説明板・主郭までの所要時間:県道沿いにある説明板のところより15分
設置場所・・・県道509号http://yahoo.jp/GjG3Al
参考資料;淡海の城、近江の城郭、長谷川講師の資料・説明
本日も訪問、ありがとうございました。