帆立貝型円墳に築かれた山城
(主郭が後円墳・副郭が前方墳)
近江では、数少ない畝状竪堀が西側に!
所在地:東近江市布施町 旧八日市市布施町 map:http://yahoo.jp/Juu07P
築城期:室町期
築城者:布施氏
城 主:布施三河守
区 分:山城
遺 構:土塁、井戸、畝状竪堀(西側)・くぐり門
現 状:山林
訪城日:2013.1.23
布施氏は佐々木六角氏の家臣であり、本家筋といわれる布施三河守家と、布施淡路守家に分かれていた。布施山城の城主は布施三河守家であり、布施淡路守家の城は、東方5kmにある大森城。
永禄6年(1563)に、六角氏被官の後藤氏が六角義弼に観音寺山城内で誅殺され、これに反発して家臣が自領へ引き上げた「観音寺騒動」が起きた際、永禄9年(1566)、布施三河守は布施山城に拠って、浅井氏と呼応して六角氏に反旗を翻した。
この騒動は、蒲生氏の調停によって収拾されたが、六角氏の権限を制限した「六角式目」が制定されました。
布施三河守は永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻の際、この城に籠もり戦いましたが敗れて廃城となりました。
古くから知られている布施溜池周辺は公園
周辺を取り巻く水路(掘?)
入山口の駐車5台可。
登城口・・・石仏の前から攻め入る。
近世の削岩のノミの跡
主郭 虎口の潜り門
虎口(石積が残る)
土塁!
主要部は石垣で構成され、縄張りはシンプル。
屋敷地と思われる所
郭跡
観音寺城に起こったのとき、布施氏は在地のこの布施山(別名、玉緒山)の城に籠もり、六角氏に対抗した。
はじめは勾配が緩く、そこに郭・館など建てられていたと思えるが、登るにつれ だんだんきつくなる山城
郭跡地と思われる所
虎口カ?近世の削岩のノミ跡が残る
観音寺城に起こったのとき、布施氏は在地のこの布施山(別名、玉緒山)の城に籠もり、六角氏に対抗した。
はじめは勾配が緩く、だんだんきつくなる山で、主要部は石垣で構成され、縄張りはごくシンプルである。
布施溜は、旧八日市市の南西、布施山の東麓にある溜池で、北側の低いところに旧溜、南側のやや高いところに新溜が位置しています。布施溜は、古代この地を開拓した人々によって造られ、平安時代の『梁塵秘抄』に「近江のおかしき歌枕、老曽轟、蒲生野布施の溜、安吉の橋」と、詠われています。
旧溜は、愛知川ダムの水が水田に利用されるようになったため、溜池としての用をなさなくなったことから、1985年頃に水が抜かれてしまいました。しかし、その後歴史的に由緒ある溜池を残そうと、1989年から池の中央部を浚渫するとともに池の北側の一部を埋め立てて公園として整備し、野鳥観察小屋が建設されるなど、今では水鳥の楽園にすっかり生まれ変わりました。
布施山城へは布施地区にある通称「溜池」横の観知溜館(みちるかん)駐車場に車を置き。ここから登るのが距離的にも近い上、雑木も少なく登りやすいようである。
約20分ほどで尾根に出る。尾根道は東西に走っているが、布施山(玉尾山または願成寺山)山頂へは東の道をとる。
山頂には狭い面積を目一杯利用して、方形というよりは円形に近い形の主曲輪(約南北30m×東西30m)があり、南東隅には井戸(溜め井)と思われる5m×4mほどの窪地が認められる。
主曲輪周囲には、高さ1m前後の土塁が廻らされている。この土塁は幅が相当厚く、土塁幅からすれば相当の高さがあったであろうとことが推測される。
主曲輪の北には幅5mほどの袖曲輪を介して20m×20mの方形曲輪を配している。こちらの曲輪にも周囲に土塁を巡らせている。高さは50~60cm程度でしかないが、主曲輪同様に土塁底の幅は相当広い。
布施公園から布施山を望む!
布施山(玉緒山)山頂にあり、石積の虎口、土塁、井戸跡、畝状竪堀が残る、自然の要塞となっている。観音寺城、雪野山、小脇城、長光寺城を望むことができる。
布施氏は佐々木六角氏の家臣で、永禄6年(1563)の観音寺騒動後の戦い(布施山の戦い)では浅井氏に通じ布施三河守が籠城した、永禄11年(1568)布施三河守の時、織田信長の上洛の際の近江侵攻により、布施山城は落城し、廃城となる。
観音寺城の淡路丸は布施淡路守、の子・藤九郎は上大森(詰城大森城)に住み(居館は江戸期に大森陣屋に)、織田信長に仕え、本能寺の変で殉死した。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系
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