五十川城へは、
お城のデータ
所在地:高島市(旧高嶋郡)新旭町饗庭五十川 map:http://yahoo.jp/cBuZCi
現 状:山林
区 分:山城
築城期:室町期
築城者:吉武氏
遺 構:土塁・基壇・空堀・廓・削平地
標高:115m 比高差:25m
目標地:山上の報恩寺・県道沿いの五十川神社(大國主神社)
駐車場:山上の報恩寺に駐車
訪城日:2016.4.16・2015.5.15
お城の概要
五十川城は、稲荷山から派生して高島平野に突き出した半独立丘の頂上にあります。城址に登る階段の脇に、数段の細い段築遺構が残存する。報恩寺には『五十川城』の駒札あり、竹林でもあり綺麗に整備され、遺構は非常に解り易いが、五十川城は緊急時の簡単な詰城であったか、防御には不十分な城だ。
ちなみに、五十川城址の頂部に土塁や基壇・空堀も残存するが、現状は城址の山部には配水池で一帯は別荘地として開発造成したが、現況はとても別荘地は荒れ地。
お城の歴史
吉武壱岐守の居城。吉武氏は法泉坊と称し高島三坊の筆頭であり、山内領の代官を務めた。
吉武城(針江城)主吉武氏の詰城とされる。『高島郡誌』によれば、吉武氏は比叡山門徒饗庭弥太郎の三男壱岐守にはじまる、弥太郎は美濃の土岐氏の庶流と伝えられるが?、詳細不明。
吉武氏は、壱岐守の兄2人がそれぞれ興した2家とともに高島(饗庭)三坊と呼ばれ、延暦寺山門領の代官を務めた。
『高島郡誌』には、浅井備前守(長政)と六角承禎(義賢)の戦いで吉武城が落城し、吉武法泉坊が落去したことが記されている。
永禄年間(1557~69)ごろから、同じ高島郡内の伊黒城主として「法泉坊」の名が現れる。法泉坊は、姓名を新庄俊長といったとされるが、『高島郡誌』では五十川城主吉武法泉坊としている。伊黒城主法泉坊と新庄俊長、そして吉武法泉坊が同一人物であるか?。
『高島郡誌』によれば、元亀二年(1572)の織田信長の命で明智光秀による高島攻略によって高島三坊は没落し、浪人となったとされる。
ただし、吉武法泉坊が伊黒城主でもあった場合、伊黒城は翌天正元年(1573)に浅井長政の再攻勢によって攻め落とされたとされる。五十川城がいつまで存続したのか不明だが、天正元年までには廃城となった。
五十川城へは先ず、報恩寺寺へhttp://yahoo.jp/jGic1L
報恩寺の手前に駒札『五十川城跡』
城跡の駒札に戻り
報恩寺の裏の駐車場から登城
通称、「五十川神社」の背後の山上遺構http://yahoo.jp/lCGVRg
参道の100m程進むと右へ『神社の鎮守の森の遺構』
ここは、別荘地として、道路と区割(河原石で石積)がされ「売物件」の看板が残る(売れ残り)
五十川(いかがわ)神社・・・目標地
大國主神社は新旭町饗庭に鎮座する。「高嶋今宮」「今宮山王宮」と称した。通称、「五十川神社」。
保延4年、木津庄が山門千僧供領になった際、日吉大社から総鎮守として勧請された。同荘内に鎮座する式内社波爾布神社を『古宮』と称したことに対して『今宮』と呼ばれた。天授6年(1380)8月18日に高島郡田井村竹ノ花から遷座されたという記録があり、応永29年(1422)の『木津荘検注帳』には、上山の麓にあった旧御旅所の位置に『今宮』と記載がある。年代不詳の『木津荘引田帳』では、現在地での鎮座に記載されている。応永15年に上郷と下郷の間に諍いが生じ、本社と日吉二宮神社に二分された。また、永正8年(1511)の『御宮年中行事』によると、4月初申日に本神社の例祭(上の御前)、4月初酉日に二宮権現(日吉二宮神社)の例祭(下の御前)が上郷(田井・五十川・上野・米井・辻澤・森)と下郷(深溝・霜降・針江・小池・山形)の共同で行われていたとされる。ただし、享保5年(1720)の『村明細帳』にはこの祭礼の記事がないことから、江戸時代半ばまでには別個の祭として行われるようになっていたことが分かる。本社に伝わる『永正8年御宮年中行事』(1511年)、『宝永3年御宮年中行事』(1706)および『元文3年御宮年中行事覚え日記』(1738)から、年間の祭礼は簡素化されつつも、明治初年までほぼ変わらず行われていた。往古より社家(中村氏)のほか宮座が存在した。神職と宮年寄(一番尉から十一番尉という11名)が祭事に携わっていた。明治2年(1869年)に差別撤廃のため宮座は廃止され、以来社家と宮総代により祭事が営まれている。
延宝年間に甲府宰相(徳川綱重)より東西32間南北143間の土地が寄進された。勧請以来「今宮山王権現」と号していたが、慶応4年(1868)3月に現社号に改められた。政府の1村1社政策により、明治43年(1910年)7月に白雲神社、上山愛宕神社、五處宮の3社を合祀した
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia
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