探訪 【小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~】2013.8.3
正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します。
虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。
城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
また南には志賀・唐崎⑨・石山寺⑩の社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。
この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷⑪にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。
これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え⑫、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。
戦野 奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事
7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣。
27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。
朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。
一気に消沈した朝倉勢は、大嶽⑧の高地へのぼって滞陣してしまった。
このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。
そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。
信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。 翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。
すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。
①現滋賀県木之本町の浄信寺 ②現浅井町草野川渓谷 ③現高島町打下 ④⑤⑥それぞれ琵琶湖北の湖岸 ⑦琵琶湖北辺の島 ⑧浅井町・湖北町間の山、原文「大づく」 ⑨現大津市下坂本町の唐崎神社 ⑩現大津市石山寺辺町 ⑪現虎姫町宮部 ⑫武田信玄の動きに備えるため。このときの信長をとりまく情勢は、ここに書かれるほど余裕のあるものではなかった。 ⑬秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称されている。
翌日横山に至
21日浅井氏居城小谷まで押し寄せて雲雀(ひばり)」・虎御前山へ軍勢を上げた。
次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊①をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
また翌24日には草野の谷②へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。
この間琵琶湖上には打下③の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦④・塩津浦⑤・与呉の入海⑥に出没して敵岸を焼き払っていた。
また竹生島⑦にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。
これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。
小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。
①浅井長政の守る本丸と久政の守る小丸との間に位置する曲輪
日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸①を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。
これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯を①浅井長政の守る本丸と久政の守るつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、
この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。
久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。
翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。
最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。
小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、
十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。