築城期:室町時代
遺 構:曲輪・土塁・説明板
築城者:望月村島守重元
望月村嶋城は崇福寺の西側背後の丘陵に築かれている。 尾根先を削平し北を除く三方に土塁が巡っており、南西側が一番高く、その上に社が祀られていた跡がある。背後の尾根には堀切は見あたらない。
柑子会議所前に案内板があり、城山の南側にある民家の脇から土塁上に通じる道が付いている。
文明12年(1480年)望月村島守重元によって築かれたと云われる。 重元とその子、重房の居城で、北にある青木城には重元の次男重武を配していたという。
望月村嶋城主 望月村島守重元の次男重武の居城であった。
【佐々木南北諸士帳】に糀村城主 佐々木随兵 望月刑部左衛門 糀村城主 箕作随兵 望月出雲守の名が見える。
甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。
- 望月家- 筆頭格。一族の著名人物として望月出雲守・望月吉棟・望月兵太夫・望月与右衛門がいる。望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。
村嶋城・・・遠景(村嶋支城の近くより)
望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。
望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり。尚、三郎は望月家嫡男に多い幼名であり、三男を意味しない)が朝命により赴任し、近江国甲賀郡主となり十六ヶ村を贈った。これが甲賀望月の祖である。
恩賞として その後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展し、戦国時代には、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。望月出雲守が望月城(現:甲賀市)を築城するなどの記録が残されており、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系
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