2004年の「八幡社と川守城の城址碑」
お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町川守 map:http://yahoo.jp/B-ZxBd
別 名:吉田城
現 状:八幡神社
遺 構:土塁、石碑
区 分:居館 (集落)
築城期:室町期
築城者:吉田巌秀
城 主:吉田出雲守
駐車場: 路上駐車
訪城日:2013.3.16
お城の概要
川守城は川守地区の八幡神社が祀られている一帯とされる。
八幡神社の一画が周囲よりも若干高くなっている、城郭遺構は社殿の裏に土塁を確認。
土塁痕(八幡神社)
城郭遺構は社殿の裏に土塁を確認
歴 史
川守城は、吉田出雲守屋敷跡であるとの伝承がある。
吉田氏は近江守護佐々木定綱の弟の巌秀を祖とし、巌秀の子の泰秀よりは出雲に在住していましたが、吉田左近将秀弘の代となって、文安年間(1444~49年)に出雲より移住し川守城を築いたとされます。秀弘の子の出雲守重賢は弓道吉田流(日置流)の創始者とされます。
川守の交差点を西入る。すぐ西側30mJA隣
交差点の常夜塔
日置吉田(へきよしだ)流弓術
日本の弓道史において大変重要な意味をもつ人物を多く輩出し、近代弓術確立の舞台となったのが、ここ滋賀県蒲生郡竜王の地なのです。
弓道は、諸武道奨励の気運が高まった明治半ばまで、「弓術」と呼ばれていましたが、その弓術の歴史をたどりながら、あまり知られていない町の横顔にふれてみましょう。
室町中期までの弓術は、武田・小笠原流などの「古流」といわれる流儀が主流でした。これは技そのものよりも、弓馬諸式の儀礼的故実様式として大成されたものです。
しかし戦乱の世となり、もっと実戦的な威力を示す弓術の必要性を感じ、新しい射術の改良工夫を行ったのが日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)でした。彼は愛田村(現在の三重県伊賀町)生まれと言われ、若いころから弓術に秀で、数々の勇名を馳せています。
彼は弓術を極めるために諸国を遊歴し、苦労の末、飛・貫・中の奥義を身につけ、彼独自の新射術を開発しました。彼は近江の六角佐々木氏に従い、その新しい弓術で大いに奮戦したと伝えられています。日置弾正については架空の人物との説もあります。
さて、近江の國、蒲生郡河森・川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏は、近江源氏・六角佐々木氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い一族でした。
その十一代目の吉田出雲守重賢(将軍足利義晴弓術指南役)について、次のような伝説が残っています。
それは、吉田重賢が生まれる前のこと。彼の母親は、彼が生まれるとき、三日月が自分の胸に入っていく夢を見ました。三日月の形からの暗示でしょうか。
彼女は「この子はきっと弓道の名誉を得るに違いない」と確信し、重賢の弓術修行にたいへん熱心でした。母親の思ったとおり、彼は年若いうちから才能を発揮し、その技は妙域に達したそうです。やがて彼が壮年になって、吉田八幡宮に参籠したときのこと、満願の暁に白髪の老人から一本の矢を与えられる夢を見ます。不思議に思いつつもさらに修行を積んでいると、その翌年、齢五十余りの老人が突然現れ、重賢に弓術の奥義をことごとく伝授しました。
この老人が日置弾正であることは言うまでもありません。こうして重賢と、その嫡子の重政(しげまさ)は、七年の間彼のもとで日夜親しく従学しました。
重賢は、その教えに自分なりの工夫を加え、ついに「日置吉田流」(へきよしだりゅう)「日置流」を完成させます。この流儀は「新派」と呼ばれ、以後近代弓術の基礎として多くの弓の名手を輩出し発展していきます。
日置弾正架空説は、「吉田流」を編み出した本来の元祖である吉田重賢が、日置弾正正次なる人物を自分の上に創造し、弓術の全ての奥義を伝授したとすることにより「日置流」流儀の重み付けを図ったと言う説もあります。
この「日置吉田流弓術」「日置流」は、血統による一子相伝もしくは唯授一人の精神を貫くことを基本としていました。しかしそのためにひとつの紛争が起きました。重賢の子、重政は父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)の弓の師範を務めるなどすばらしい腕の持ち主でした。
この吉田重政の門人で、主家の佐々木義賢は、どうしてもその秘伝を伝授してほしいと重政に迫りました。しかし重政は、いくら主家であっても、他家へ渡すことはできないと、一子相伝の掟を守り、それを許さなかったため、二人の間には不和が生じ、一時吉田重政は越前一条谷に引きこもってしまいました。結局数年後、朝倉義景(あさくらよしかげ)のとりなしにより、二人は養子縁組を結び、佐々木義賢は日置吉田流の奥義一切を受け継ぎます。
その後、佐々木義賢は逆に吉田重政の息子の重高を自分の養子として秘伝を返したと伝えられています。この紛争がもたらしたものは、同流派の分立化です。吉田重政から佐々木義賢、そして吉田重高 へという流れは、いわゆる出雲派と呼ばれ、その後重綱=豊隆=豊綱=豊覚…と続き、阿部藩の庇護を受けて明治維新まで発展します。
これに対して、佐々木義賢と、吉田重政の対立を憂い、吉田流弓術の危機を感じた吉田重賢が、重政の四男で孫に当たる重勝「雪荷」に直接真伝を伝授したことから、本流とは違った別の流派が生まれました。これを雪荷派と呼び、吉田流の技術的な要素は雪荷派に多く伝えられているとも言われています。重勝は諸国を周遊して弓術修行に励み、その門人は数百人にものぼりました。
蒲生氏郷・秀郷親子、森刑部、羽柴秀長、豊臣秀次、細川幽斎などが高弟として有名です。その後、この二つの流派からさらに分立が進み、総じて日置六派もしく七派と呼ばれるようになりました。
吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)は、一水軒印西と言い日置流印西派(日置當流)の祖として後世に名を残します。
「日置流印西派」は徳川将軍家弓道指南役にもなり「日置當流」と言われる様になりました。
大和日置流(吉田流) ├出雲派----------寿徳派 | | └ 印西派(いんさいは) | ├山科派 | ├左近右衛門派---大蔵派---山科派 | └大心派 └雪荷派(せっかは)(日置當流)----道雪派 |
本流はどこなのかという点については諸説がありますが、いずれにしても吉田家という一族が、何代にもわたり弓道で名を挙げたことは事実であり、たいへん希有なことだといえるでしょう。
1543年ポルトガル人により伝えられた鉄砲は、日本の戦術に大きな変化をもたらしました。特に織田信長による鉄砲戦術以降、武器としての弓や矢の役割は衰退していきます。
しかし武士が指導力を持っていた江戸時代には、弓は士気鼓舞のための武士教育に用いられるようになりました。
そして個人的な弓の技術を確認するだけでなく、武士の力を民衆に誇示するため、京や江戸で三十三間堂の通し矢が盛んになりました。
中でも出雲派の流れをくむ大蔵派の創始者、吉田茂氏は、前後七回にわたってその技を試み、次々に自己の記録を更新し、天下一の名声を独占しました。
明治維新以後弓術は、西洋文化を重んじる気風に押されて一時衰退の色を見せましたが、現在では、学校体育にまで取り入れられ、男性のみならず、女性にも愛弓者が増えつつあります。
現代の弓道は、ただ目標に射当てるだけでなく、何事にも動揺することのない精神性を身につけるスポーツ弓道ですが、その根幹にあるのは、日置吉田流という大きな流れです。
このように滋賀県竜王町と弓道は深い結びつきがあることをおわかりいただけたかと思います。
弓道をされる方は是非竜王町にお越し頂き、かつて弓の道を極めた男たちのロマンを静かに感じ取っていただいてはいかがでしょうか。
お問合せ・担当課 竜王町観光協会 0748-58-3715
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、竜王町観光協会
本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!