市辺 阿賀神社
お城のデータ
・住所:東近江市糠塚 map:http://yahoo.jp/0nw-LW
・形 式:古戦場
・現 状:雑木林・公園・万葉歌植物園
・遺 構:土塁・堀・櫓台?
・戦 い:観應二年九月 ○氏頼の陣代 山内定詮 VS ●京極道譽
・目標地点:万葉歌碑・阿賀神社
・訪城日:2014.4.14
『近江蒲生郡志』(三四七頁)によりますと、
船岡山 「船岡山は市邊村糠塚の西に在る小丘なし、観應二年九月佐々木氏頼の陣代山内定詮と京極道誉と激戦したる古戦場なり」軍事誌参照と記す。
歴 史
蒲生野の合戦 「天正本太平記」によれば、船岡山の麓に陣取った京極道譽は、味方の軍勢を三隊に分け、鏡山から北上してくる敵に備えたという。
第一隊はその子京極高秀を大将とした軍勢で、これには蒲生・小倉の一族をつき従わせて壊(破)塚(八日市市市辺町)に陣取らせ、六角直綱を大将びした第二隊は道合の森(八日市市三津屋町)に配置、みずらは遊軍の第三隊の指揮官となって船岡山のふもとに陣取った。
戦いは山内定詮と京極高秀の軍の衝突で始まってた。定詮は高秀軍を一挙に攻め破り、直義党の後勢で開始されたが、高秀軍の敗走を見た道譽は直綱の率いる第二隊と遊軍の第三隊をただちに戦闘に参加させるや、情勢は一転、今度は尊氏党優位にたった。百銭練磨のの道譽の指揮により、数の上においては劣勢ながら尊氏党がいったん戦いの主導権を握ったのである。しかし、高秀軍を追撃していた定詮が軍を引き返し、本隊に復帰するや数の上ではまさる直義勢が再び有利になり、定詮を先頭とする直義党の反撃によって道譽は船岡山まで撤退を余儀なくされ、ここに勝敗を帰すうは決した。
定詮の追撃ははげしく船岡山の陣所を引き払った道譽は、金柱宮(八日市市小脇町)の社前で一度は屠腹を覚悟したと「天正本太平記」は伝える。
幸い譜代の若党の決死の防戦により、道譽は窮地を脱出、小脇山のふもとを回って本拠地甲良荘(犬上群甲良町)に逃げ帰ったが、道譽の率いる尊氏党の完敗であった。
道譽の完敗とともに観音寺城にあった六角直綱・渋川直頼らの軍も、城を捨て八相山の尊氏のもとに走り、直義党は湖北八相山の敗戦、ここ湖東の蒲生野で雪辱することに成功したのである。【八日市市史より(誤記 尊氏⇒高氏「道譽」)】
足利尊氏が開いた室町幕府の重臣として活躍したのが、佐々木京極高氏(道誉)で、その勢力は宗家である佐々木六角氏を凌ぐものがあった。
そして建武五年(1338)、道誉が近江守護職に任じられたのである。これに対して、佐々木六角氏らの抵抗があり、道誉の守護職在任は半年間で終わり、六角氏頼がふたたび近江守護職に任じられた。
やがて、観応の擾乱が勃発すると、政治情勢は混乱を極め、進退に窮した氏頼は突如出家すると高野山に上ってしまった。
六角氏は幼い千寿丸を当主に戴き、氏頼の弟山内定詮が後見人となって擾乱に翻弄される六角氏の舵取りをした。
擾乱は直義の死によって終息、出家していた氏頼が還俗して六角氏の当主となり、近江守護職に復帰した。以後、佐々木六角氏は安泰の時代を迎えた。
しかし、嫡男の義信(千寿丸)が早世、京極氏より高秀の子高詮が養子に迎えられた。ところが、氏頼に男子(亀寿丸)が生まれたことで、にわかに波乱含みとなった。そのようななか、氏頼が死去、後継者問題が生じた。
当時、幕府内部では細川氏と斯波氏の間で権力闘争が行われており、それは六角氏の家督争いにも影響、結局、高詮は実家に戻され亀寿丸(満高)が家督を継承した。しかし、満高は将軍足利義満の守護抑圧政策によって、領内統治は思うように行えず、ついに応永十七年(1410)には守護職を解任されるという憂き目を味わった。
その後、満高は近江守護職に再任され、家督は満綱が継承した。満綱は領国支配を強化し、山門領・寺社本所領を蚕食していった。しかし、満綱の強引な所領侵略は嘉吉の土一揆の蜂起を招き、京から近江に落去という結果となった。そして、近江守護職も解任されてしまったのである。
参考資料:蒲生郡誌、Wikipedia、八日市市史
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!