城郭探訪

yamaziro

平田城   近江国(彦根)

2014年08月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:彦根市平田町   map:http://yahoo.jp/zE-QOs

現 状:民家

遺 構:近年宅地開発で消失

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:平田氏(土豪)

城 主:平田和泉守・平田宗左衛門高慶

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:彦根市社会福祉センター別館

駐車場: 路上駐車場

訪城日:2014.8.18

 お城の概要

彦根市社会福祉センター別館の東側道路~約150m先水路がある交差点の南側宅地付近

平田城は、中世城郭分布調査によると、平田町の西方で福祉保健センターの北側、天理教公平分教会が建つ住宅地一帯に比定されている。付近は碁盤状に整然と区画され民家が建ち並んでいるが、比定地前だけは車道がクランク状に曲がり、北方には野瀬川支流の水路が区画とは逆らって流れている。これらは城館があった名残りなのだろうか。

 歴 史

「佐々木南北諸士帳」に平田城主平田和泉守の名がみえる。

『多聞院日記』に平田城・天正10年12月13日の条「筒井ハラタト云所ニ陣取、サラ山へ一里南ニ」と記す。

また京都清水寺の「成就院勧進奉賀帳」には文明11年平田宗左衛門高慶の名がみえる。平田氏は荘官出身の土豪。

応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません。

『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていたことが窺えますね。

元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っています。
そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた徳川家康による佐和山城攻めでも平田山に家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。
家康の佐和山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる場所だったと言えますね。


江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。
七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうですよ。


参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

 

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