城郭探訪

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近江の国の合戦年表

2016年01月05日 | 古戦場

参考資料:影の流れ

応仁・文明近江の乱

 
細川党(東軍)  
  京極持清 重臣は多賀高忠
  京極政経  
  京極高光 (文明2年から西軍に転ずる)重臣は多賀昌宗
  六角政尭 重臣 三井又五郎・伊庭造阿・和田某
  小倉実澄  
  蒲生貞秀  
     
山名党(西軍)  
  六角高頼 重臣は山内政綱・伊庭貞隆
  六角政信 (文明4年から東軍に転ずる)
  六角政勝  
  大原成信  
  京極高清  
       
◇六角氏

湖南地方を支配した佐々木六角氏では、満綱が剃髪すると、嫡子四郎持綱が政務をとっていたが、文安元年(1444)、六角氏の被官らは、持綱の品行修まらず、無道の事が多いと反逆し、幕府に訴えた事から、持綱は難を避けて、父満綱とともに同族の大原持綱を頼った。

 

文安2年(1445)正月28日、満綱次男の時綱を奉じた六角氏の被官たちが、満綱、持綱父子を攻めて自殺させる、という骨肉弑逆の惨事を引き起こした。
こうして、満綱の次男時綱が、重臣たちに支えられて六角家の家督を継ごうとした所、相国寺に入って僧となっていた三男久頼が、父兄が死んだ後を継ぐため還俗した。そして家督を継ぎ、文安3年(1446)2月、元服して久頼と称し、幕府に出仕する事になった。
久頼の還俗は、時綱を奉じた六角氏被官たちの意外とする所で、彼らは久頼元服の翌月の3月12日、夜陰に乗じて、久頼の京都邸を襲ったが、暗殺の目的を達せず、かえってますます幕府の怒りを買う事になった。9月5日、久頼が飯高山(愛知郡)に時綱以下、被官、重臣たちは、頭を並べて自害するという結果になった。
ところが、互いに勢力争いを繰り返していた六角氏と京極氏との間は、この六角久頼の代においても、当時、頭角を現してきた京極持清との間に、対立抗争を繰り広げる事となり、久頼は同族京極持清との確執を苦にして自害した(康正2年10月2日)。
そして、その久頼の後を、子亀寿丸(のち高頼)はまだ幼少であったため、先に自害した時綱の子、政尭が継いだが、この政尭が、重臣伊庭某を殺した事から、将軍義政の怒りをかい、執政を辞めさせられ、政尭は出家して、京都洛北で僧となった。
政尭が退けられた事で、六角家では持綱の子政信が後を継いで家督を継ごうとした所、幕府は久頼の子亀寿丸(高頼)に六角の家督を継がせた。
その事で、今度は政信と高頼とが六角宗家を争う事となった。
応仁の乱が始まると、六角政尭は還俗して、京極持清の招きによって東軍に加わった事から、政尭に六角宗家を奪われていた高頼は西軍につく事になり、また政信は、高頼と宗家を争った間でありながら、政尭が父の仇であると憎む気持ちから、政尭に抗して、山名党に与するという事になった。
しかし、高頼と政信は、もともと宗家を争う関係であったから、やがて政信は高頼とも袂を分かって、のちには、東軍に転ずるようになっていく。

       
応仁元年(1467) 10月 17日 六角高頼、六角政尭と馬淵で戦う。
  12月 13日 京極持清、六角高頼方の高野瀬城を攻め落とす。
応仁2年(1468) 4月 1日 京極持清の嫡子勝秀は、六角氏の主城観音寺城を攻める。当時、六角高頼とその陣代山内政綱らは京にあり、留守を守る伊庭行隆が、京極勢を迎えて、攻防数日戦いの末、六角方は敗れて城を開く。
  4月 初め 京極勝秀、甲賀郡に攻め入り、高頼方の小佐治為重を攻める。
  4月 26日 高頼方の山内政綱、六角政尭の長光寺城を攻め落とす。
  閏10月 30日 高頼方の山内政綱、弓削において、六角政尭を破る。この時、弓削の瑞光寺七堂伽藍は残らず焼失する。
  11月 5日 六角政尭、京極持清、高頼方の守山城を攻め落とす。
  11月   高頼方、神崎郡垣見において、政尭方に敗れる。
  11月 8日 再び、京極持清、六角政尭、観音寺城を攻め落とす。
文明元年(1469) 5月   六角高頼、近江守護職を解任され、京極持清が近江守護職となる。六角高頼は激高し、焼亡破却された城を修築して、これに拠った。京極持清、六角政尭、観音寺城を攻撃するが、撃退される。
  7月 25日 京極持清方、高頼方の愛知郡押立城を攻め落とす。
  8月 初め 京極持清方、高頼方の神崎郡梁瀬城を攻め落とす。
  8月 18日 持清方の多賀高忠、高頼方の山内政綱の守る金剛寺城を攻め、落とす。この時、甲賀武士佐治一族、活躍するが、部下の戦死者も多く、佐治越前守為重の息子も戦死する。
  8月 20日 京極方の多賀高忠、高頼方の慈恩寺城も破る。
  8月 26日 京極方の多賀高忠、観音寺城下石寺において高頼方を破る。
文明2年(1470) 2月 12日 京極方の多賀高忠、観音寺城馬場において高頼方を破る。
  5月頃   高頼の被官、島郷、望月、村島、服部、大原ら甲賀武士たち、多賀高忠の兵に敗れる。望月、村島、服部五郎左衛門、大原ら討ち取られる。佐治美作守為定も戦死。
  8月 4日 京極持清、病死。京極家分裂し、六角高頼、有利となる。
  9月 22日 多賀高忠、伊勢に逃れ、関盛元を頼る。
  11月頃   多賀高忠、蒲生郡八丁原において、高頼軍を破る。
文明3年(1471) 1月 23日 京極方の多賀高忠、慈恩寺城を攻め破る。六角高頼は甲賀に逃げ、高頼の老臣佐々木新左衛門自刃する。
  2月 28日 美濃の土岐氏、高頼を助けるために、宿将斎藤妙椿(利藤)を出陣させる。国境を越えて米原山にて京極氏を破る。高頼、これを知り甲賀から出て斎藤勢と合流し、多賀高忠を破り、敗走させ、近江を回復する。
  6月 27日 細川勝元、六角政尭に六角高頼討伐を命ずる。高島の朽木弥五郎貞武、六角旧臣目賀田次郎左衛門、下笠美濃守、高野瀬与四郎、小河丹後守、山崎中務丞らにも政尭に味方するよう命ずる。政尭は神崎郡清水鼻に城を築き、拠る。
  閏8月 21日 京極政高、出雲、隠岐、飛騨3ケ国の守護職となる。
  11月 12日 高頼、清水鼻城を攻める。政尭、自害して果てる。清水鼻城は、のちに箕作城といわれる。この後、六角政信は東軍方に与し、高頼と戦う事となる。
文明4年(1472) 8月   高頼、援軍の斎藤妙椿、畠山義就と共に、多賀高忠、京極政高を江北において破る。多賀高忠は越前に逃げる。
文明5年(1473) 9月 30日 京極政高、近江国守護職となる。
文明7年(1475) 10月 28日 高頼、佐々木庄において京極政高、叡山山門衆徒を破る。
文明18年(1486) 8月   京極政高、老臣多賀宗直に命じ敏満寺の京極高清を攻めさす。高清は敏満寺城を捨て、甲賀郡三雲に逃れる。
文明19年(1487) 5月 1日 京極高清、勢いを盛り返し京極政高を攻める。多賀宗直自害。
長享元年(1487) 9月 12日 将軍義尚、六角高頼征伐するため、坂本に出陣(鈎の陣)。将軍の陣営には、京極政高、京極高清、田中兵衛尉、土肥刑部少輔、佐々木大原備中守政重、同左馬介尚親、伊勢又六、吉田源四郎、岩室弥四郎らの、京極方を主とする近江武将も加わる。
  9月 24日 京軍の武田国信、京極高清、富樫政親、仁木貞長、上野玄蕃頭、伊勢貞陸、細川被官の安富、上原、物部らが、六角方の将九里の拠る金剛寺、伊庭の拠る八幡山を攻める。金剛寺、八幡山は落城。高頼は甲賀武士、山中、望月、和田らを頼り、甲賀に逃げる。高頼が甲賀に逃げたので、将軍義尚は陣を栗太郡鈎の安養寺に移る。京郡の浦上則宗は甲賀に高頼を追うが、すでに高頼は伊勢に逃げていた。
  10月 27日 義尚は本陣を安養寺から下鈎の真宝館に一宇に移す。
  12月 2日 六角高頼軍は甲賀から出て、高頼の宿将山内政綱は野洲の三上に陣する。この夜、甲賀21家が将軍陣所へ夜討ちを掛ける。
長享3年(1489) 3月 26日 将軍義尚、陣中で病死(25才)。幕府軍は京に引き上げる。
延徳3年(1491) 8月 27日 将軍義材、六角高頼追討のため大津三井寺の光浄院に陣を張る。すでに、8月23日、六角高頼は観音寺城を捨て、甲賀に逃げる。
  10月   京軍の軍奉行赤松兵部少輔政村の老臣、浦上美作守則宗が佐々木庄に着陣する。
  11月 3日 六角高頼の宿将山内政綱が、高頼を裏切り将軍陣営に帰服。
  11月 18日 義材、赤松大膳大夫政則と織田大和守敏定に山内政綱の殺害を命ずる。赤松氏の将浦上則宗、織田敏定、大津の浜道場に山内を挟撃する。山内政綱、赤松伯耆守に首を討たれる。
延徳4年(1492) 3月   六角高頼、梁瀬河原で浦上軍と武田氏の将逸見軍と戦い敗れ、甲賀、飯道寺に逃れる。高頼、江北の京極高清と手を結び、幕府軍を撹乱させようとする。
  5月   斯波義寛、山名豊時、守山に着陣、武田元信、野洲の小南に着陣。
明応元年(1492) 9月   京極高清、市原谷、八風峠口に出動。
      赤松政則、芝原に着陣、京極勢を蹴散らし甲津畑まで進出。京極勢は敗れて北方に退却。
  10月   将軍義材、三井寺から陣を金剛寺に進める。
      六角高頼は伊勢に逃げるが、鈴鹿坂下で北畠材親の兵に敗れる。
  12月 13日

将軍、金剛寺の陣を払い、帰京する。


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