参考資料:影の流れ
応仁・文明近江の乱 |
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細川党(東軍) | |||
京極持清 | 重臣は多賀高忠 | ||
京極政経 | |||
京極高光 | (文明2年から西軍に転ずる)重臣は多賀昌宗 | ||
六角政尭 | 重臣 三井又五郎・伊庭造阿・和田某 | ||
小倉実澄 | |||
蒲生貞秀 | |||
山名党(西軍) | |||
六角高頼 | 重臣は山内政綱・伊庭貞隆 | ||
六角政信 | (文明4年から東軍に転ずる) | ||
六角政勝 | |||
大原成信 | |||
京極高清 | |||
◇六角氏 |
湖南地方を支配した佐々木六角氏では、満綱が剃髪すると、嫡子四郎持綱が政務をとっていたが、文安元年(1444)、六角氏の被官らは、持綱の品行修まらず、無道の事が多いと反逆し、幕府に訴えた事から、持綱は難を避けて、父満綱とともに同族の大原持綱を頼った。 |
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文安2年(1445)正月28日、満綱次男の時綱を奉じた六角氏の被官たちが、満綱、持綱父子を攻めて自殺させる、という骨肉弑逆の惨事を引き起こした。 |
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応仁元年(1467) | 10月 | 17日 | 六角高頼、六角政尭と馬淵で戦う。 |
12月 | 13日 | 京極持清、六角高頼方の高野瀬城を攻め落とす。 | |
応仁2年(1468) | 4月 | 1日 | 京極持清の嫡子勝秀は、六角氏の主城観音寺城を攻める。当時、六角高頼とその陣代山内政綱らは京にあり、留守を守る伊庭行隆が、京極勢を迎えて、攻防数日戦いの末、六角方は敗れて城を開く。 |
4月 | 初め | 京極勝秀、甲賀郡に攻め入り、高頼方の小佐治為重を攻める。 | |
4月 | 26日 | 高頼方の山内政綱、六角政尭の長光寺城を攻め落とす。 | |
閏10月 | 30日 | 高頼方の山内政綱、弓削において、六角政尭を破る。この時、弓削の瑞光寺七堂伽藍は残らず焼失する。 | |
11月 | 5日 | 六角政尭、京極持清、高頼方の守山城を攻め落とす。 | |
11月 | 高頼方、神崎郡垣見において、政尭方に敗れる。 | ||
11月 | 8日 | 再び、京極持清、六角政尭、観音寺城を攻め落とす。 | |
文明元年(1469) | 5月 | 六角高頼、近江守護職を解任され、京極持清が近江守護職となる。六角高頼は激高し、焼亡破却された城を修築して、これに拠った。京極持清、六角政尭、観音寺城を攻撃するが、撃退される。 | |
7月 | 25日 | 京極持清方、高頼方の愛知郡押立城を攻め落とす。 | |
8月 | 初め | 京極持清方、高頼方の神崎郡梁瀬城を攻め落とす。 | |
8月 | 18日 | 持清方の多賀高忠、高頼方の山内政綱の守る金剛寺城を攻め、落とす。この時、甲賀武士佐治一族、活躍するが、部下の戦死者も多く、佐治越前守為重の息子も戦死する。 | |
8月 | 20日 | 京極方の多賀高忠、高頼方の慈恩寺城も破る。 | |
8月 | 26日 | 京極方の多賀高忠、観音寺城下石寺において高頼方を破る。 | |
文明2年(1470) | 2月 | 12日 | 京極方の多賀高忠、観音寺城馬場において高頼方を破る。 |
5月頃 | 高頼の被官、島郷、望月、村島、服部、大原ら甲賀武士たち、多賀高忠の兵に敗れる。望月、村島、服部五郎左衛門、大原ら討ち取られる。佐治美作守為定も戦死。 | ||
8月 | 4日 | 京極持清、病死。京極家分裂し、六角高頼、有利となる。 | |
9月 | 22日 | 多賀高忠、伊勢に逃れ、関盛元を頼る。 | |
11月頃 | 多賀高忠、蒲生郡八丁原において、高頼軍を破る。 | ||
文明3年(1471) | 1月 | 23日 | 京極方の多賀高忠、慈恩寺城を攻め破る。六角高頼は甲賀に逃げ、高頼の老臣佐々木新左衛門自刃する。 |
2月 | 28日 | 美濃の土岐氏、高頼を助けるために、宿将斎藤妙椿(利藤)を出陣させる。国境を越えて米原山にて京極氏を破る。高頼、これを知り甲賀から出て斎藤勢と合流し、多賀高忠を破り、敗走させ、近江を回復する。 | |
6月 | 27日 | 細川勝元、六角政尭に六角高頼討伐を命ずる。高島の朽木弥五郎貞武、六角旧臣目賀田次郎左衛門、下笠美濃守、高野瀬与四郎、小河丹後守、山崎中務丞らにも政尭に味方するよう命ずる。政尭は神崎郡清水鼻に城を築き、拠る。 | |
閏8月 | 21日 | 京極政高、出雲、隠岐、飛騨3ケ国の守護職となる。 | |
11月 | 12日 | 高頼、清水鼻城を攻める。政尭、自害して果てる。清水鼻城は、のちに箕作城といわれる。この後、六角政信は東軍方に与し、高頼と戦う事となる。 | |
文明4年(1472) | 8月 | 高頼、援軍の斎藤妙椿、畠山義就と共に、多賀高忠、京極政高を江北において破る。多賀高忠は越前に逃げる。 | |
文明5年(1473) | 9月 | 30日 | 京極政高、近江国守護職となる。 |
文明7年(1475) | 10月 | 28日 | 高頼、佐々木庄において京極政高、叡山山門衆徒を破る。 |
文明18年(1486) | 8月 | 京極政高、老臣多賀宗直に命じ敏満寺の京極高清を攻めさす。高清は敏満寺城を捨て、甲賀郡三雲に逃れる。 | |
文明19年(1487) | 5月 | 1日 | 京極高清、勢いを盛り返し京極政高を攻める。多賀宗直自害。 |
長享元年(1487) | 9月 | 12日 | 将軍義尚、六角高頼征伐するため、坂本に出陣(鈎の陣)。将軍の陣営には、京極政高、京極高清、田中兵衛尉、土肥刑部少輔、佐々木大原備中守政重、同左馬介尚親、伊勢又六、吉田源四郎、岩室弥四郎らの、京極方を主とする近江武将も加わる。 |
9月 | 24日 | 京軍の武田国信、京極高清、富樫政親、仁木貞長、上野玄蕃頭、伊勢貞陸、細川被官の安富、上原、物部らが、六角方の将九里の拠る金剛寺、伊庭の拠る八幡山を攻める。金剛寺、八幡山は落城。高頼は甲賀武士、山中、望月、和田らを頼り、甲賀に逃げる。高頼が甲賀に逃げたので、将軍義尚は陣を栗太郡鈎の安養寺に移る。京郡の浦上則宗は甲賀に高頼を追うが、すでに高頼は伊勢に逃げていた。 | |
10月 | 27日 | 義尚は本陣を安養寺から下鈎の真宝館に一宇に移す。 | |
12月 | 2日 | 六角高頼軍は甲賀から出て、高頼の宿将山内政綱は野洲の三上に陣する。この夜、甲賀21家が将軍陣所へ夜討ちを掛ける。 | |
長享3年(1489) | 3月 | 26日 | 将軍義尚、陣中で病死(25才)。幕府軍は京に引き上げる。 |
延徳3年(1491) | 8月 | 27日 | 将軍義材、六角高頼追討のため大津三井寺の光浄院に陣を張る。すでに、8月23日、六角高頼は観音寺城を捨て、甲賀に逃げる。 |
10月 | 京軍の軍奉行赤松兵部少輔政村の老臣、浦上美作守則宗が佐々木庄に着陣する。 | ||
11月 | 3日 | 六角高頼の宿将山内政綱が、高頼を裏切り将軍陣営に帰服。 | |
11月 | 18日 | 義材、赤松大膳大夫政則と織田大和守敏定に山内政綱の殺害を命ずる。赤松氏の将浦上則宗、織田敏定、大津の浜道場に山内を挟撃する。山内政綱、赤松伯耆守に首を討たれる。 | |
延徳4年(1492) | 3月 | 六角高頼、梁瀬河原で浦上軍と武田氏の将逸見軍と戦い敗れ、甲賀、飯道寺に逃れる。高頼、江北の京極高清と手を結び、幕府軍を撹乱させようとする。 | |
5月 | 斯波義寛、山名豊時、守山に着陣、武田元信、野洲の小南に着陣。 | ||
明応元年(1492) | 9月 | 京極高清、市原谷、八風峠口に出動。 | |
赤松政則、芝原に着陣、京極勢を蹴散らし甲津畑まで進出。京極勢は敗れて北方に退却。 | |||
10月 | 将軍義材、三井寺から陣を金剛寺に進める。 | ||
六角高頼は伊勢に逃げるが、鈴鹿坂下で北畠材親の兵に敗れる。 | |||
12月 | 13日 |
将軍、金剛寺の陣を払い、帰京する。 |