お城のデータ
所在地:野洲市永原 map:http://yahoo.jp/nK6-06
別 名:永原御殿
築城期:江戸期
初城主:徳川氏
区 分:御茶屋御殿
遺 構:土塁、堀、石垣、門(浄専寺に移築された永原御殿の移築門)
城 域:200m×200m
目標地:野洲北中学校
駐車場:永原御殿前駐車場
訪城日:2012.12.14・2015.3.28
お城の概要
江部の交差点を西(琵琶湖方面)に約300m入ると、住宅地の中を抜けると、竹林がある。ここが永原御殿跡である。
地元の人たちはボランティアで竹を刈りたいと役所に申し入れたそうだが、御殿跡を保管管理する手前、許可されない。
御殿跡の西側には石積みが残り、御殿の門が同町の浄専寺に移築されているが、管理状態はあまり良いとはいえない。
また、草津の芦浦観音寺に貞享2年(1685)に移建された一棟が観音寺書院(重要文化財)として残されいる。
(野洲市歴史博物館)
お城の歴史
永原御殿は、江戸期に将軍が上洛する際の宿舎として造られたもので、近江国内では永原御殿以外に柏原御殿・伊庭御殿・水口御殿(水口城)がある。将軍家が中山道を通って上洛する場合、永原御殿の次の宿舎は京都二条城であった。
この永原御殿も、貞享3年(1686)、幕府の命によって廃城となった。
近江守護の観音寺城主佐々木六角氏の重臣で、野洲、栗太、甲賀にまで勢力を拡げていた永原氏が築いた永原城がその前身で、その築城年代は定かではないが、室町時代中期といわれる。永原城は永禄11年(1568)、織田信長の近江侵攻の際に攻められており、元亀元年(1570)には信長の重臣、佐久間信盛が入城しており、その後、豊臣政権下の文禄年間(1592~96)に廃城となった。
関ヶ原合戦後に家康公が権力を掌握すると、中山道と朝鮮人街道の近くにある永原城の跡地を利用して将軍上洛時の宿泊施設としての永原御殿が築かれた。永原御殿は慶長 6年(1601)、家康公が利用したのをはじめとして、その後、家康公が 6回、2代将軍秀忠が 2回利用し、寛永11年(1634)、3代将軍家光が上洛にあたり利用したが、これが10回目の、最後の利用となった。この後は徳川幕府の権力が磐石なものとなったことから将軍が上洛することはなくなり、各地の御殿と同じく、必要性のなくなった永原御殿は、貞享 2年(1685)に廃止された。尚、御殿の建物は芦浦観音寺(草津市芦浦町)に書院として移築されており、国の重要文化財に指定されている。又、浄専寺(野洲市北)には門が移築され、現在も残されている。
御殿跡の西側には石積み
浄専寺に移築された永原御殿の移築門
浄専寺に移築された永原御殿の移築門 (野洲市歴史博物館)
永原御殿は御茶屋御殿の遺構。
御茶屋御殿とは徳川将軍が上洛の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、 中山道に柏原御殿、朝鮮人街道に伊庭御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。
1国に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです。
これは近江が京都に近く、朝廷を牽制するのに最も適した所だったため。
(野洲市歴史博物館)
復元模型(野洲市歴史博物館)
永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、 有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。
幕藩体制が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia
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