西村館の門
お城のデータ
所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)西村町 map
現 状:屋敷跡残存
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:屋敷門・曲廓・土塁・石碑
目標地:天満宮・西村バス停
駐車場:天満宮
訪城日:2016.2.11
お城の概要
草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山が控えている。
山麓に西光寺
集落内は三段に削平して住居が建ち並び、このうち天満宮・公会堂。現西村家を含む一帯が本郭であったと思われる。
特に現西村家は門のみ屋敷地の東側は約1,5mを測る比高差をもって落ち込み、その下に水路で遮断している。また、南には幅約1,5m、高さ約1mを測る土塁が設けられている。
西村哲男翁之碑居館の南東隅部
一方、天満宮、公会堂の位置する地区も。傾高地の張り出し部と思われるが、東側は、約2mの落ち込みを見せている。
集落の北側は河川で遮断された防禦の構えをみせており、堀跡に間違いないであろう。
背後の山尾根には一部切り岸が伴う削平地や土橋状地形が存在するが、西村集落の砦の可能性もある。
天満宮の境内に西村公会堂
お城の歴史
中世の城館遺跡であるが、詳細は不明である。
伊香荘(古代〜中世)西村哲尾氏所蔵文書)
平安期から見える荘園名伊香【いかご】郡のうち余呉【よごの】荘の南、富永荘の北に位置する現在の伊香【いか】郡木之本【きのもと】町西山・大音【おおと】・黒田・木之本・千田・古橋・川合・大見・杉野あたりに比定されている延久2年「弘福寺領近江国荘田注進」(平遺1044)によれば大宝年間以前に斉明天皇の勅施入で成立したものとされているこの注進には荘田として18条4里・5里に10町2反236歩とある弘福寺領伊香荘と連続するかどうかは不明であるが、13世紀から14世紀にかけては皇室御領伊香荘が存在し、一方では六条院領として室町院に相伝され、持明院統の伏見院・花園院に伝領され、一方では浄金剛院領として後嵯峨院―大宮院―亀山院―昭訓門院―昭慶門院と相伝され大覚寺統の所領ともなっていたようである(室町院御領目録・昭慶門院御領目録など)一方、暦仁元年「四条天皇宣旨案」、建治2年「後宇多天皇宣旨案」によると天台座主の相伝の所領のなかに「近江国伊香勅旨」なるものが見えている(鎌遺5346・勝尾寺文書)また、正中2年の「承鎮法親王付属状」には五仏院領として「近江国伊香荘,妙臨寺」が記録されている(三千院文書)さらに南北朝期の文和2年近江北郡に散在する梶井宮門跡領が、山内定詮によって違乱をうけたが、この中にも「伊香庄号五位庄 妙臨寺」の名が見える(菅浦文書771)あるいは建長2年「九条道家惣処分状」には「近江国伊香古庄」とある(鎌遺7250)「荘園志料」は伊香荘を「イカゴ」と記し、「伊香古に作る」としているそこでこれらの諸史料を伊香郡伊香荘であるとすると、鎌倉期には皇室御領として存在するとともに、その間に一部は摂関家領、延暦寺領として相伝されることもあったようであるその後康永元年花園院は伝領した室町院遺領を直仁親王に相伝したが、直仁親王は近江国伊香荘内黒田郷・古橋郷・石作郷等を妙心寺に寄進している妙心寺は応永の乱により寺領を没収されたが、黒田郷等は南禅寺領となった文安元年妙心寺は再興し、黒田郷等は返付されたが、このとき黒田郷等をめぐって南禅寺徳雲院末寺竜雲寺と相論を展開している(妙心寺文書)また黒田郷・古橋郷については「伊香荘内」とある場合と、「近江国中荘内」と記されている場合があり(妙心寺文書)、嘉暦4年「公文、実験使等連署状」には「中庄椙野郷」と見え(横山神社文書)、応永5年「足利義満御判御教書案」には「近江国伊香中庄」とある(佐々木文書)これらを勘案すると伊香荘は伊香中荘・中荘ともいったようである15世紀から16世紀には京極氏の支配するところとなり、続いて国人・土豪勢力の拮抗する状態が続き、
やがて浅井氏の支配下に入るに至ったそしてこの頃には「伊香荘」「中荘」なる文言はあまり見られなくなり,地域を示すにはもっぱら「古橋郷」などという「郷」名が多く用いられており,荘園としての歴史は終焉したようである天正元年浅井氏滅亡後は江北一帯は羽柴秀吉の領するところとなったが,天正13年山内一豊が近江長浜に入り,旧伊香荘の地域では大音33石・黒田130石・古橋440石等々を知行した(山内文書/東浅井郡志4)天正18年には石田三成が佐和山城に入り、以後江北を領したが,この地域はその配下に属したようである(高橋末治郎氏所蔵文書・西村哲尾氏所蔵文書)関ケ原合戦後、慶長7年この地域一帯に小堀新介の検地が実施され、近世の徳川氏の支配体制に組み込まれていった慶長7年検地帳は西山・大音・木之本・千田の地に現存している。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!