比定地西端に建つ称名寺。
お城のデータ
現 状:集落
区 分:平城
築城期:南北朝期
築城者:矢橋氏
城 主:永禄十一年(1568)に矢橋和泉守安忠の名
遺 構:堀痕
目標地:矢橋シルバーセンター・
駐車場:矢橋シルバーセンター駐車場・路上駐車
訪城日:2014.10.21・2016.4.21
お城の概要
矢橋城は、浜街道の西側の、2本の水路に挟まれたあたりに存在したとされています。矢橋は琵琶湖の重要な湖港であると同時に、対岸の大津へ船で向かうのが東海道の近道であるため、交通上の要衝でした。近江八景の1つ「矢橋帰帆」とは、このルートで賑わう船の列を指したものです。
矢橋城の範囲は、浜街道から良覚寺および正高寺のあたりまでとみられていますが、集落内で屈曲する堀跡と思しき水路以外には遺構らしきものは見受けられません。
矢橋城址の脇を流れる水路。堀跡か。
歴 史
矢橋氏の居城とされる。矢橋氏の出自については不明であるが、『日本城郭大系』によれば、永禄十一年(1568)に矢橋和泉守安忠の名がみられるとされる。
『大系』では矢橋城を南北朝期の築城と推測しているが、理由は明らかでない。
・高井章博氏からコメント、ありがとうございます。
矢橋氏(日野町出身の高井と申します)
矢橋氏は、後に、徳川幕府の御書院番頭を務める五百石取りの旗本となり、江戸麹町二番町に屋敷を構え、明治維新まで続きました。なお、分家の当主・矢橋良嗣氏(医師)とは、中学・高校の同期生でした。
矢橋小船入り航路絵図
大津歴史博物館蔵
江戸時代に東海道の間道として利用された矢橋の渡しについて、天明5年(1785)、幕府の道中御用掛の求めに応じて大津と矢橋の船年寄が差し出した絵図。筆者は澤松翠。大津町から半島状に突き出ているのが島の関で、その東に位置する小舟入と、対岸の矢橋の間に渡し船が通っていた。東海道が大きく迂回して瀬田唐橋を渡るのに対し、矢橋渡しが近道であったことを巧みに描いている。
江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は平安時代の連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。
【武士(もののふ)の やばせの舟は早くとも 急がば廻れ 瀬田の長橋】
東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。
松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。【五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 橋桁の忍は 月の名残り哉】大きく迂回して瀬田唐橋を渡るのに対し、矢橋渡しが近道であったことを巧みに描いている。
急がば回れ」の語源:「危険な近道をするよりも、遠回りでも安全確実な道を歩いた方が結局は目的地に早く着ける。遠回りに思えても安全な手段を取った方が得策である」という意味をあらわす有名なことわざですが、実は、その語源は草津にあります。
当時、旅人が京へ向かうには、草津の矢橋(やばせ)から琵琶湖を横断する水路の方が、瀬田の唐橋を通る陸路より近くて早いのですが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により、危険な航路だったため、このような歌がうたわれました。
【武士(もののふ) 矢橋の船は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋】
藤村も【菜の葉や みな出はらひし 矢走舟】
2016.4.21
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア(Wikipedia)
本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!