お城のデータ
所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾字城山、井出山 map:http://yahoo.jp/-JS7kM
現 状:森林
区 分:丘陵城
標 高:520m 比高差:30m
築城期:室町期
築城者:多羅尾氏
廃 城:元亀年間
遺 構:曲廓、大堀切、土塁、物見櫓、虎口桝形
目標地:多羅尾小学校・里宮神社・市民センター
駐車場:市民センター
訪城日:2016.2.5・2006.2.8
お城の概要
東へ伸びた尾根の先端を掘り下げて削平し、背後の尾根を土塁状に残して曲輪としている。曲輪は南北に長く東に二段の小段が付き、南は土塁状に削り残した尾根に向かって段々になっている。西背後の尾根は南北両側から傾斜が付き、西側を堀切で遮断している。
登城口・・・県道の終点から南へ橋を渡り多羅尾陣屋跡の方に進む。大同川の橋を渡って直ぐに西側に赤い消防ホース格納箱があり「多羅尾9」とある。これの北側に細い通路があり、この道が山上に通じている。
信楽町多羅尾のうち浦出集落の北、多羅尾代官陣屋の北方に、丘陵東先端部に築かれている。大戸川が城の北裾を流下している。
構造は、西側の丘陵続きを両側に土塁を伴う堀切で遮断し、先端から削り込み東西30m、南北70mの主郭を造成し、さらに南側に段々に高くなる三段の平坦地を、主郭東側には段々に低くなる二段の郭を付帯させている。虎口は、主郭の北西隅に開口し、一段低い内桝形から土塁北側を回り、北西麓へと下っていたと思われる。現在は、東端から登る道が付けられている。
堀切内側の土塁は高々と聳える巨大なもので見応えがある。
歴 史
城主が多羅尾氏と云われ、多羅尾集落を支配するための拠点とした城館であった。
多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は11世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。13世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁4年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。
多羅尾代官屋敷跡方面
主郭部
主郭背後の大土塁
大堀切
多羅尾代官屋敷跡の北端(頂部に石垣が見える)多羅尾城山城の下・・県道から南から見上げて
登城口
多羅尾集落の辻から旧道を行くと多羅尾小学校の隣にこの里宮神社が鎮座する。
『里宮神社(さとみやじんじゃ)(宮の谷)
天正信長時代には牛頭天王(ごずてんのう)として村の人達がお祀りしたといわれている。
更にその後、近衛家の支流高山太郎師俊(後、多羅尾と改め)、多羅尾村を領し、江戸時代安政年間同、紀伊那智新宮の大年神(おおとしがみ)(農業の神)お迎えし里宮神社(さとみやじんじゃ)と称し今日に至る。
多羅尾氏 抱き牡丹/藤巴●藤原北家近衛氏流
『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。
浄願寺 http://tempsera.at.webry.info/201204/article_20.html
多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。
多羅尾氏、勢力を伸張
多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。
表舞台への登場
多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。
家康の伊賀超え
本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康また非常に危険な状況に身をおいていたのである。
長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。
栄枯盛衰を味わう
山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。
この長政軍の前に立ちはだかったのは多羅尾光俊で、四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。
天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。
この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。
多羅尾公民館(市民センター)に駐車
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!