浅井三代記(13)
第十三(全文)
信長卿江州佐和山に来長政と初て対面の事
永正十一年七月二十八日に信長卿より浅井備前守方へ使節を以申させ給ふは、貴殿数年我等と対面の儀を被2申越1けれども、路次のたよりもいかゞと思ひ堅く留置候。相談を遂べき儀候條来る八日に犬上郡佐和山の城にして対面可レ申候間、内々左様に心得給へと被2仰越1ければ、備前守は佐和山の城主礒野丹波守が方へ被2申越1けるは、信長はじめて当地へ被レ越事なれば、随分掃除等とりつくろふべしとありければ、丹波守畏候とて、其催をぞしたりける。備前守は一門家老召連れ、佐和山へ罷越、相図の日限にはすり針峠まで迎に罷出て待たまふ。かくて信長卿は小姓二百四五十騎にて出させ給ふ。備前守御迎に是迄被レ出る事不レ浅とて、御感悦不レ斜、先へ被レ参候へと被レ仰けるに付、長政は佐和山へ信長卿もそれより佐和山の城へ御着座あり。備前守には一文字宗吉の御太刀並に鎗百本、しちら百端、具足一領、御馬一疋を引給ふ。父久政には黄金五十枚、御太刀一振を給はる。浅井が家老一門不レ残御禮申上ければ、それ/\″に引出物を賜はる。中にも磯野丹波守には銀子三十枚、祐光の太刀一振、御馬を給はる。三田村、大野木、浅井玄蕃三人には御太刀馬代をひかれける。かくて備前守不レ斜に悦び善をつくし、美をつくし、御馳走申ばかりはなかりけり。御酒宴数献めぐり、幾千歳と舞うたふ。翌日小谷の御前にも久しく対面不レ被レ成候故、御逢被レ成度と被レ仰、則小谷より迎よせ、信長も奥へ御入なさむ。つましく語らせ給ふ。其の夜、信長被レ仰けるは、備前守長政は義深き仁にて候へば、某が方へも可レ参などゝおもはるべし。只今天下の御大事をかゝへて置ながら、あなたこなたと日をついやすもいかゞなり、明朝は當城をかり、爰にて禮をうくべきと被レ仰ければ、長政辞退す。信長達て被レ仰に付、其御請を申ける。扨其夜は信長、長政両人、奥へ御入被レ成、夜中密談し給ふ。後に承るに、箕作攻手の事、三好退治の御談合諸事、義昭公の御上洛の御相談とぞ聞えける。翌朝は長政父子を信長卿佐和山の城にて御振舞なり。其時長政は家重代の備前兼光の太刀、名を石わりといふ一腰、近江綿二百把、同じく国の名物布百疋、月毛の馬一匹、定家卿の藤川にて被レ遊し近江名所つくしの歌書二册進上して御禮申上る。父下野守久政は太刀折紙にて常ある通のさゝげ物、一門家老それ/\″のさゝげ物にて御禮す。長政よりは今度信長卿供の者共に不レ残あらみの太刀脇指をひかれける。今度信長卿へ進上せらるゝ備前の兼光の太刀は亮政秘蔵せし打物なり。備前守より備前兼光を信長へ送られしは、備前守長政、信長の為に滅亡せられし前表なりとは後にぞ思ひしられたる。かくて信長卿は濃州より兼てたくまれし事なれば、さま/\″の珍物を相とゝのへ、其日終日のもてなしにて残る所もなかりしうへに、信長卿、長政の家老共に宣ふは、面々よくきかれよ、長政かく某が子分に罷成上は、日本国中は両旗にて可レ治、随分粉骨を抽てらるべし、さもあらば各を大名に取立べしとさもありげに仰られける。かくて翌日十一日には佐和山浦にて大網をおろし御馳走有しに、鯉鮒其外の魚類夥し。信長卿御威尤甚しくして美濃にしては如レ此なぐさみはあるべからず、ことさら当国の名物なれば、御帰城にもたせらるべきとぞのたまひける。其夜備前守と内談ありて、翌日佐々木一家の者共方へ先心をうかゞひ見ばやとて、義昭公の御使節に信長、私の使相添申入給ふは、京都の逆徒三好を追、罰被レ成度思召に付、某其仰承候て、此地迄罷越候味方に参るべし。本意をとげらるゝにおひては無二の忠節たるべき旨申入させ給へども、曾以御請申さず、おし返し/\三度被レ遣けれども、終に承引せされば、重て軍勢を率し攻べし。長政も勢をもよほし出張せらるべき旨堅く契約まし/\て、二十日あまり御滞留被レ成、同じく二十日に岐阜へ御帰座可レ被レ成と有ければ、御名残の酒宴数刻に及し故に、其日は柏原の常菩提院に御一宿と相定て、長政もすり針峠迄御送り申されしとなり。領分の事なれば御馳走にとて、遠藤喜右衛門尉、浅井縫殿助、中島九郎次郎、三人承りにて彼御宿所に馳参じ、御座の用意をつくろひける。
遠藤喜右衛門尉小谷へ馳帰る事
かくて信長卿は常菩提院へ御入被レ成、此地は長政領知なれば、御心安くおぼしめさるゝとて、御供の侍共は町屋に置給ひて、御近習の小姓衆当番役の者共ばかりにておはします。去程に遠藤喜右衛門尉は馬にむち打、もろ鎧にて小谷へ馳帰り、長政に逢ひ一間所にて申けるは、此中信長卿の様體見奉るに、物毎に御気をつけらるゝ事誠に猿猴の梢をつたふが如し。発明なる事鑑に影のうつるが如くなる大将なり。御前行末まで信長卿の御気にあはせ給ふ事なりがたかるべし。所詮只今此地にて、御討被レ成事御尤と存るなり。信長卿はいかにも打解させ給ひて、馬廻の面々も皆宿々へ返し給ひて、御傍には小姓当番役十四五人ならではこれなし。御同心にて御座候はゞ私一人として討奉るべし急ぎ思立給ひ、御人数被レ出、二百余騎の侍共悉討取、其いきほひに濃州岐阜へ押寄する物ならば、大将はうたれ給ふなり。残る武士共は皆味方に可レ参。然らば尾張国も早速に御手に入可レ申、其いきほひを以て佐々木一家を追払ひ、都に旗をあげ給ひ、三好を追討に被レ成に何の子細の候べきと一口に申上ければ、長政は聞給ひ、遠藤が詞も用ゐずのたまひけるは、信長我等を心安く打とけ、親子の如くにおもはるゝ故、人数もめしつれずして当国に永々滞留したまふなり。是非可レ討と存なば、此中佐和山にして一刀にさしころすべきは安けれど、武将となる身の心得あり。謀を以て打は是をゆるす、頼みて来るを打事是をゆるさず。今信長のごとくに御心もおかせ給はずして居給ふを打なば、一旦利有とも終には天のせめをかうふるべしと宣ひて、少も同心し給はねば、遠藤は承り、後には御悔み、草ともなるべきなり。よく/\御思案被レ成よとて、又引返し、柏原に懸つけさらぬ體にて、御馳走申上、翌日関ヶ原まで見送り奉る、
信長卿朝井長政入洛 附江南落城の事
備前守長政は信長卿より御入洛の日限兼て示合せし事なれば、留主中国中の仕置申付、永禄十一年九月六日に佐和山の城にいたり、信長卿を相待處に江南所々の城主共、浅井方へ通して信長卿の御味方可レ仕といふもの多し。其比江南には承禎子息義弼、事の子細候て後藤父子を討し故、家中我がちになり、箕作をうとみはてたる故浅井を頼み来たる者数をしらず。されども家老分は魏を守る故か、三好に心をかよはしけるゆへにか、降参すべき気色もなし。かくて信長卿は御入洛有べきの間、加勢可レ被レ成の段被2仰遣1ければ、家康卿より小笠原与八郎に二千余騎の勢を相添上せらる。信長卿も尾州濃州三州の三ヶ国の勢をかりもよほし、同じく八日居城岐阜を御立有ければ、先勢は江州醒ケ井柏原に着陣すれども後陣は濃州地をはなれず人数みち/\たり。急ぎ給へば、其夜は江州浅井の領内常菩提院に本陣をすへ給ふ。翌日佐和山の城へ打入給ひ人数くばりを浅井と相談ある。浅井当国の事なれば兼て案内残所なし。一々御指図申上らる。重て信長卿のたまひけるは、長政は観音城の押へを可レ被レ仕と有ければ畏存候。併我等の者共は爰許の案内よく鍛錬仕候間、攻手を一方被2仰付1候へかしと申上られければ、信長卿観音城のおさへ大事と浅井存する故、如レ此申と思ひ給ふが、其儀に候はゞ箕作を攻らるべしとぞ仰ける。浅井其時の内意は佐々木六角の家には代々久敷当国に任ぜし家、又は只今信長と縁者によりさへぎつて働とおもはれんもいかゞと思ひ給ふゆへなり。一には一戦おはりなば中和をつくろふべきとの所存なり。度々此承禎とは相戦ふといへども、同国なれば情深くぞおもはれける。
箕作落居の次第信長記にあらまし出申候ゆへ略仕候。
浅井江南の路次の押へに箕作の城に籠る事
かくて信長卿箕作の城、観音寺の城、長光寺の城、八幡山の城を初め打破り通り給へども、承禎は愛知郡鯰江の城に楯籠る所の城主其数を不レ知。しかりといへども信長都へ御急ぎ被レ成故、先道筋計を追払ひ、同じく二十三日迄観音城に逗留ありて、長政に被レ仰けるは、承禎父子の逆徒三好を兼て何事を計置もしれざるなり。其上義昭公の御供仕、某上洛せば近所なれば相坂辺へ馳集り、前後を可レ包と計置もしれざれば、貴殿は箕作の城観音城両城の留主を頼なり。跡に残り江南の城持共を味方にまねくべしと被レ仰ければ、長政承り被レ申けるには、仰は尤にて御座候へども、今度の御大事の供にはつれ申事残多し。是非上洛をと望給へども、信長達て仰けるは、当国の残徒、所々に楯籠る間無2心許1存るなり、偏に頼とおほせば、長政は其勢六千余騎にて箕作の城観音城両城に楯籠り、佐々木が残党をまねき寄る。かくて信長卿は京都制法事故なく取行ひ給ひ、其年の霜月下旬に帰国したまふ。又観音城に入たまひ一日滞留被レ成、長光寺の城に柴田修理、美作の城に木下藤吉郎に与力数多相添入かへられ、浅井は本城小谷へと被レ帰ける。
長政上洛 附二條喧嘩の事
斯て京都本国寺におはします義昭公の許へ三好が一家、正月三日に押込て、急難にあはせ給ふ旨、岐阜へ注進有しかば、信長聞かけに馳上り給ふ。浅井も聞よりはやく上らるゝ間、信長卿よりは一日先へ打て参着す。されども将軍恙も渡らせ給はずして、寄手悉敗軍する故、長政は清水寺成就院を宿坊と定めて居給ひける。信長卿も同じく十日の日、御上着被レ成一條妙覚寺を御宿坊と被レ遊けるに、洛中の名人等我も/\と縁を取、御目見申上る。信長卿御前へ召出され、対面し給ひ被レ仰けるは、清水寺に着坐する浅井備前守長政は我等が大切に存するむこなり、彼者が方へも見まはれよと被レ仰ければ、浅井威勢はつのりけり。かくて信長卿、将軍義昭公へ被2仰上1けるは、今度の急難に被レ為レ逢事も偏に御坐所あしき故なり。今度は本の御所を普請可レ仕と被2仰上1、則畿内近国の人歩を入、二條の御所をば四方へ一町づゝひろげ可レ申との評議なり。御普請は信長卿と長政と両将として請取給ひける。則信長卿の奉行には佐久間右衛門尉、柴田修理亮、森三左衛門に弓鉄炮者相添らる。浅井方の奉行には三田村左衛門大夫、大野木土佐守、野村肥後守三人に申付らる。かくて去年浅井箕作の城の攻手の時働にぶく候故、信長卿の弓鉄炮の者共、浅井足軽共を内々雑言す。又奉行に付居る者共も是を聞、内々無念におもひしに佐久間右衛門尉丁場より三田村左衛門大夫が丁場へ水をかへ込候處に、左衛門大夫が侍是を見て、某が丁場へ水をかへ入る筈にて候や、子細可レ承と申ければ、佐久間が侍共申けるは、其方の請取の丁場へすてずして何方へ持ほこぶべき、何浅井のぬる若が者共とていよ/\水をかへこめば、浅井が足軽共は聞かねて、三百計一度に簀の棒をはづし、佐久間が者共とたゝき合けるが、浅井が者共つよくして佐久間が者共を追立る。それよりして森、佐久間、柴田見かね、打物のさやはずし、かゝれ/\と下知をする。浅井方にも兼て無念に思へば、三田村、大野木、野村三人一度に切立売堀川迄追立る。又信長の物頭共にも聞かけに出合、浅井が勢を二條迄追下す。又浅井が荒手二百計馳来り、信長の者共を立売迄追立、双方相引にのきにけり。其時両方にて討るゝ者百五十とぞ申ける。野合の合戦にもか程多くは討るまじきに、かく大きなる喧嘩は候はじと京中にての評議也。森、柴田は信長卿の御前に伺候して、右の次第を申上、浅井に御目見せ、よきゆへ如レ此の狼藉仕候間、今度は浅井に一入付可レ申と御訴訟申上る。信長卿喧嘩の次第一々御吟味被レ成被レ仰けるは、去年箕作を攻る時、浅井がふりにふきゆへ汝等が者共雑言かな申つらん。浅井が家は弓矢取てほまれあるぞ、かさねてもかまへて/\がさつなる事申かけ不覚を取など被レ仰て、さらぬ體にておはしましければ、森、柴田も信長卿取上させ給はねば、いきほひかゝつて居たりし者共もせん方なくてぞ居たりける。浅井此喧嘩の旨を聞、自然信長方より人数を可レ寄かとて清水寺に人数の手あてをしてぞ居たりける。翌日に公方より信長浅井両人が者共和睦可2申付1とて御宿坊に被2仰付1、各和睦したりける。かくて普請成就して公方御座をうつされける。公方わたまし信長記に詳なり。
浅井備前守心替りの事
徳川家康卿年始に御上洛ましませば、御同心なされ越前国へ発向有べきと内談し給へば、森三左衛門尉、坂井右近と申上けるは、御諚の通尤には奉レ存候へども、此由浅井に御しらせ候て、其上にて御進発可レ然御坐候はんと申上る。信長聞召、浅井にしらせなばよし越前を攻よとは申さじ。其上朝倉のぬく若は我等方へ使節をも越されば、よも此信長に属せんとは申まじ。とかく浅井が方には案内なしに越前を攻る事勝手よかるべしとぞ被レ仰ける。森、柴田重て申けるは、浅井恨はいかゞと申上ければ、我等とは親子の間なればいかで思ひかへんとて、元亀元年四月二十日諸卒引具し、西近江路にかゝつて若狭路に出させ給ひ、手筒金崎の城を攻給ふ。かくて此旨浅井下野守久政聞付子息長政の舘へ行、近習外様の者迄もよびよせ申されけるは、今度信長此方へ一言の案内にも不レ及して越前へ攻入、手筒の城を攻取たると聞えたりといふぞ、いづれも其段聞つらん。越前を攻取其引足にて定て当国へみだれ入、一門顔にて当城へ馳来り可レ攻との事なるべし。とかく越前の国の堅固なる間に越前と一味して、信長を可レ討なりと申出されたり。子息備前守をはじめいらせなみ居たる面々とかくの言語もなくしづまりかへつて居たりける。久政重て申されけるは、信長の軽薄者は先年長政縁者になる時に天下平均におさむるとも、越前の国の儀は浅井が指図にまかすべきと堅く誓紙をかゝるれど、それをも事としたまはず、越前へ踏込て、今かく攻らるゝ人なれば、頼がひはあるべからざるぞ。備前守と申されける長政、心に思ひ給ふは、今かく信長は国多く攻取、虎狼の勢をもあざむく程の威なるに、義景と同心して信長を可レ討とも不レ覚。とかくの返事もしたまはねば、遠藤喜右衛門尉進み出て申けるは、長政公の御意なきこそは道理なれ、双方御背被レ成がたき所なり。併信長卿は最早只今は美濃尾張三河伊勢若狭当国丹後五畿内の主として発明なる大将なり。越前勢と此方の御勢を以て信長を討奉らん事憚多き事なれども、越前は先代に恩ある国の事なれば、誰なりとも人持衆に御人数相添られ、一千計も御加勢候て、其上にて無事を御つくろひ可レ然と推参申す。野洲此旨を聞、大に立腹して申されけるは、汝等末坐の侍として推参申様かなとあらゝかに怒り座敷を立てぞ被レ帰ける。長政も家の子も此儀いかゞと案じける。赤尾美作守、下野守方へ行申されけるは、只今信長の越前を攻給ふ事は尤なり。ゆへはいかんとなれば信長上洛度々なるに、義景より一度も使節なし。近国悉信長御手に入候に、我々は構なきとおもひ、其禮儀もなき事立腹したまひ、攻らるゝ物にて御坐あるべし。遠藤が申如く磯野丹波守に被2仰付1、信長へ万事の御かまひなく御見廻に被レ遣、此越前国は浅井が家に恩ある国にて御坐候間、其表へ罷出不レ申候と被2仰遣1尤と申ければ、久政立腹して汝等迄も左様に義の違ひたる事申か、所詮此年寄にしは腹切との事なるべしとて身をもだえ怒ける。中にも浅井石見守、木村日向守などは久政の御意ある旨も尤なり、信長に付奉るとも、行末頼母子くも不レ覚候間、越前へ使者を立、よく/\諜し合せらるべきと同音に申せば、久政も時の急を逃るげきとゝかく天運の末と思ひ切、其儀にて候はゞ長政の仰にはしたがひ可2申上1候へども、此朝倉はか/\しく働出る事なるべき人と不レ思候間、諸事対陣の義は此方指図可レ仕候間、あしかるに駆引せらるべき旨久政公よりよく/\被2仰遣1可レ然と宣へば、久政やがて同姓福壽庵、木村喜内助を越前一乗谷朝倉の許へ申遣されける。両使越前にいたり、義景へ書札相渡し、かくと申ければ、義景大に喜悦して一門家老近付、浅井書札の通よみ給ひ、誠に浅井父子の心底は金鐵ともいづべし。先代の恩を思ひ出て、現在縁者の信長をそむき某に組すべきと申さる事古今稀なる弓取かなと満坐一同に感悦す。其後両使朝倉へ申入けるは、信長此表を引取給はゞ、江州小谷へ取かけらるべし。其時節、早速御出馬被レ成、矢島野にして無二の一戦を被レ成、信長を討取御分別肝要にて御座候と申ければ、何時なりとも一左右次第即時に馳付可レ申とぞ申ける。浅井両使左様に思召候はゞ、誓紙を一通可レ給と望みければ、義景も此際に候へば、望所の幸と被レ存、長政父子指図に違背候はじとて、やがて誓紙を出されける。それより両使小谷に帰り、義景一家の誓紙をさし出す。久政父子一門家老よろこびは限なし。かくて長政申されけるは、先年信長と縁者になる時、誓紙越され候なり。明日為レ持候て返すべし。其者に引つゞき山中道を差ふさぎ、越前勢と近江勢として前後を取切包討に可レ討とありければ、久政此由を聞いや/\其儀に非ず、義景と相談しよきつぼへをびきよせ、心静に可レ討なり。此度人数出す事堅く無用と制しければ、長政力及ばすして信長卿より内室の家老として付越さるゝ藤掛三河守、熊谷忠兵衛を相添、信長卿の許へぞ遣しける。かゝりける處に、信長卿の御前には浅井謀叛の旨取々評議すれども、長政やはか心替せしと御承引をもしたまはねば、御前なる人々慥に左様に申などゝいひもはて、さるに藤掛三河守、熊谷忠兵衛両人、右件之誓紙を返上申上、浅井口上の趣申上ければ、信長卿をはじめ宗徒の人々上を下へと周章き十方にくれておはします。信長既に御腹めさるべきとて御身をもませらるゝ處に、徳川家康卿信長卿の御前に進み出させ被レ仰けるは、無2勿体1御事なり、命を全して敵をほろぼすこそ良将ともいふべけれ、御腹なさるべきとはあさましき御心底なりと忠諌をなし給へば、信長卿は聞給ひ、御辺仰らるゝ事はさる事なれども、我等足永に出張し敵の中に居るといひ、難所は前後にかゝへつ浅井が方より人数を出し、切所のつまり/\に立置鳥も通ふ事なるべからず。当国勢につゝまれ賤敷者の手にかゝらんよりは心しづかに腹切べしとて御手に汗を握り給ふ。家康卿重て被レ仰けるは、今度の議は某次第に可レ被レ遊、先某若狭路より西近江路へ懸とほり様子を見候べし。某難なく通りなば敵なきと思召追付引取給ふべし。若江州山中辺に敵出合なば、其所より一左右可レ仕、其時は御分別次第になさるべしと被レ仰ければ、ともかくも御辺次第とのたまへば、路次中の事かたく手筈を御申合、越前敦賀を御立被レ成、若狭路へ懸り、それより江州山中を過給へ共、敵一人も出ざれば、舟木の浦へ着給ひ。其村の長多羅尾治郎大夫を深く頼ませ、それより御舟にめされ、南近江佐津磨浦へ上らせ給ひ。それより千種越に濃州つやせいしへ出、三州岡崎に帰城したまひける。
越前敦賀表しつはらひの次第信長帰国の次第以前信長記の抜書にしるし差上申候條略仕候
浅井朝倉を呼出すに不レ被レ出事 付重て使を遣す事
かくて浅井備前守長政は物頭共をよび集め軍評議して申けるは、信長越前を引取、京都に逗留と聞えたり。就其江南佐々木承禎も所々の味方を駆催し、信長帰国を相待といふ。是よき幸なり。越前の朝倉左衛門大夫義景をよび出し、彼を同勢として濃州へ切入、岐阜を即時に切落し申べし。其時信長馳帰、可レ被レ申江州路へ被レ来ものならば、佐和山表にて可レ戦伊勢路へかゝりなば、濃州の内おこし洲の股にて可レ戦。此儀利有べしと相談をこはれけるに、一座同音に尤と請たりける。左候はゞ越前へ一左右すべしとて川毛三河守、浅井福壽庵を指越さる。両使越前に至り義景へ軍の段々申入ければ、義景も一門家老打寄評定とり/\″なり。やゝあつて家老共申けるは、いかに信長留守なりとも、はる/\美濃路へのり出し敵に跡先をつゝまれなば、いかにたけくはやるとも、利有べきともおぼえず。よく/\御思案可レ被レ成と口々に申ければ、義景もげにもとおもはれける。中にも魚住玄蕃、山崎長門守進み出て申様には何も家老中の御分別尤には候へども、軍と申ものは昔より今に至る迄手きれたる事候はでは、勝利すくなき物にて御座候と聞及び申候。其上浅井、信長に敵をし味方に組せじ事頼もしき心底なり。是非思召立給ひ、浅井と示合、一戦とのぞめども、残る人々は少も承引なかりける故、浅井方への返事には信長定て貴殿の御居城小谷へ押寄らるべし。其時当国より大軍を率し、二手に分ち中道上道双方へ押出し後巻をすべきなり。其時城中より切て出、切所へ敵を引うけ攻戦はゞ、勝利これに過しと被2申越1出張はやみにけり。浅井が両使小谷に帰、此段を申せば、長政は聞給ひ、義景の心底もしれたり。かくのび/\に捨をかば信長の物はやき大将に討勝事は十が一も不レ覚、父の仰とおひながらよしなき人と組せし事、家運のつくる所なりと立腹かぎりはなかりけり。其後又木村喜内助と赤尾兵庫を以て義景の方へ申されけるは、信長下着被レ申候はゞ、追付当国へ可2乱入1候條、加勢可レ給、国境に要害を拵入置、関ヶ原表にて相さゝへ可レ申と申遣しければ、其時は浅井使の趣尤なりとや思ひけん。朝倉式部大輔三千余騎にて小谷へ来る。やがて江州と美濃の国のさかひ長久山苅安に要害を拵、越前勢三千、朝倉式部大輔大将にて籠置る。同じく今洲口長亭軒の要害をかまへ、堀次郎を籠置る。此次郎父の遠江守病死して次郎當年八歳なれば、家老の樋口三郎兵衛兼益と多良右近楯籠る。多良も堀が家臣なり。近所本郷の城には黒田長兵衛尉を入置たまふ。右の城の根城として横山の城には三田村左衛門大夫秀俊、大野木土佐守国定、野村肥後守貞元、同兵庫頭直次、彼等四人を籠置、濃州より江北への通路をさしふさぎてぞ置給ふ。
浅井三代記第十三終
(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。