城郭探訪

yamaziro

・大中湖と西の湖

2013年09月10日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

大中湖(だいなかのこ、だいなかこ)は、かつて滋賀県湖東地域に存在した湖。大中ノ湖大中之湖大中の湖とも表記される。

琵琶湖の東岸に位置し、かつて40数か所あった琵琶湖の内湖の中で最大の面積を有した。行政区画としては、近江八幡市、神崎郡能登川町(現東近江市)、蒲生郡安土町(現近江八幡市)におおむね均等に三分割されていた。戦後に干拓されて農地となった。

大中湖は琵琶湖中央部の東岸に位置し、沖合約2kmには琵琶湖最大の島である沖島が浮かんでいる。大中湖と琵琶湖は砂州で区切られており、湖面標高84mの琵琶湖に対して大中湖の湖面標高は81mだった。直径4kmのほぼ円形であり、隣接して小中湖(伊庭内湖、安土内湖、西ノ湖の総称)があった。湖底は平坦で浅く、水深は最大でも2.7mしかなかった。面積は15.4km2であり、同様に干拓された巨椋池(京都府南部)の約2倍だった。周囲一帯は内陸性気候であり、冬期には他の湖東地域よりも積雪が多い。米原市から近江八幡市にかけての湖東地域にはかつて内湖が点在しており、大中湖以外の主要な内湖を以下に挙げる。湖東地域と湖北地域の総干拓面積は2521.3ヘクタールであり、琵琶湖の面積の3.7%である。戦後には特に琵琶湖南湖において、リゾート施設や公共施設建設のための湖岸埋め立てが行なわれたが、これらの総湖岸埋め立て面積は336ヘクタールに過ぎない。

八幡山城(遠景)

右・・・北ノ庄城址、手前・・・円山(まるやま)城址――遠景

西の湖・・・遠景に三上山が!

西の湖は安土山の西にあることからきています。面積は2.8キロ ㎡、水深は1.5mの浅い湖です。
この一帯は干拓地で、昭和17年までは安土山から北はびわ湖につながっていました。
その周辺のヨシ群落は近畿地方では最大級であり、周囲は水郷は張り巡らされ、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つとして有名です。
ヨシ原を主体とする湿地には動植物が多く確認され、2008年10月30日にはびわ湖のラムサール条約湿地登録エリア(1993年6月10日)が拡大され西の湖が追加登録されました。
ヨシ群落は魚や、渡り鳥ヨシキリの繁殖場所でもあり、晩秋から冬にかけては水鳥がやってきます。2006年には西の湖一帯は鳥獣保護区に指定されました。

西の湖絵図

 

 

 

 

 

 

 

 

 滋賀県旧安土町から近江八幡市に跨る内湖。近江八幡から安土にかけての広大な農地の中にある。
流入する河川はほぼ南から、流出する河川は放水路の長命寺川が主。かつては近接して安土内湖等があったが、現在は西の湖を残し干拓されている。
往時の安土水郷の情景は西端の園地に色濃く残っていて、水郷めぐり観光が人気。湖岸には広大なヨシ原が残り、今も葭細工に重宝される。

歴史

近代以前

 大中湖や小中湖が干拓される以前は、周囲一帯の内湖を「中の湖」(なかのうみ、中之海とも)と称しており、現在の大中湖は特に五十丁湖(ごじっちょううみ)と呼ばれていた。1964(昭和39)年の干陸時に、南東部の砂州近くの湖底に大規模な農業集落の跡(芦刈遺跡/大中湖南遺跡)が発見され、縄文時代から鎌倉時代にかけて断続的に営まれた人々の暮らしの様子が明らかとなった。湖底東端には縄文時代の遺物、その西側には弥生時代の遺物と貝塚、さらに西側には奈良時代から鎌倉時代までの遺物が検出されている。

 弥生時代中期初頭の水田跡は日本最古の稲作遺構のひとつとされる。水田跡、用水路跡などを含む12万平方メートルの区域は、初期農耕集落の構成がうかがえることから1973年(昭和48年)に「大中の湖南遺跡」の名称で国の史跡に指定された。

  平安時代末期もしくは鎌倉時代に水没し、現代に至るまで水の底にあった。浅い水深のために琵琶湖独自の魞(えり)と呼ばれる漁法が発達し、畳表や灯心の材料となる藺(い、イグサ科の植物)が栽培された。近世には新田開発が盛んになり、江戸時代後期には小中湖周縁部の干拓が行なわれた。

戦後の干拓事業

  長命寺山系(西側)、琵琶湖(北側)、大同川(東側)、滋賀県道526号(南側)に囲まれた地域が大中湖干拓地、国土交通省 国土画像情報(カラー空中)を基に作成

明治期以後、たびたび干拓が計画されたが、漁業補償などの問題から実現しなかった。1942(昭和17)年には隣接する小中湖の干拓が着工され、5年後の1947(昭和22)年に完成。第二次世界大戦後には食糧対策や失業者対策の一環として全国各地の浅海や湖の干拓が計画され、1952(昭和27)年に大中湖でも干拓計画が承認された。1957(昭和32)年にはすべての漁業補償問題が解決し、同年度より干拓事業が開始されると、総事業費41億円をかけて1964(昭和39)年に干陸し、1966(昭和41)年から始まった216戸の入植は翌年に完了。前述したように琵琶湖の湖面よりも標高が低いため、排水は機械排水に頼っているが、集中豪雨時の排水などに問題を抱えている。

営農展開

干拓された1300ヘクタールのうち、集落や道路などを除く1023ヘクタールが農地として使用されている。大中湖干拓の主目的は他の干拓地とは異なり、食糧対策や失業者対策ではなく専業農家の育成にあった

。農業近代化モデル地域という意味合いがあり、入植当初から近代的な稲作の技術指導や大型機械の導入、カントリーエレベーターの建設などが行われた[。他県出身者21戸を含む216戸の入植者には農地4.0ヘクタールと宅地0.1ヘクタールが与えられ、北端・西端・南端の3集落に振り分けられた。1960年代はほぼすべての入植者が稲作経営を行い、肥沃な土壌で水稲の豊作が続いた。1970年に本格的な米の生産調整が開始されると、肉用牛の肥育やスイカの生産が導入され、スイカは「大中スイカ」という銘柄でブランド化されたが、収益性の低さから生産面積は減少していき、現在では個人的な生産がみられるのみである。

肉牛は「近江大中牛」としてブランド化され、いわゆる近江牛とは異なる流通がなされている。1970年代末にはストレリチアなどの花卉栽培や、キャベツなどの露地野菜栽培も導入され、水稲の作付面積は減少していった。

旧伊庭内湖との境界付近に滋賀県立農業大学校が立地している。

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・ウィキペディア 等々

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