蒲生郡志には、案内板の縄張図には他に、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。
『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。
これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。
また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道 ” で詳しく紹介しています。
江藤加賀右衛門屋敷(青木加賀右衛門・青木重直?)
安土城図江州安土古城図
安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。
お城のデータ
所在地:近江八幡市安土町下豊浦 map:http://yahoo.jp/4xU3Op
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:江藤氏
現 状:現・安土城祉・山麓館跡
遺 構:石垣・土塁・空堀・城道
目標地:安土城跡
訪城日:2015.6.13・2016.12.10
お城の概要
安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。
お城の歴史
安土城が完成する前にあった「江藤氏屋形」
青木重直 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
生誕 | 享禄2年(1529年) |
死没 | 慶長18年11月21日(1614年1月1日) |
改名 | 重直→浄憲(法名) |
別名 | 貞勝[要出典]、通称:加賀右衛門(加賀右衛門尉)、刑部卿、法印 |
墓所 | 佛日寺[1](大阪府池田市) |
官位 | 刑部卿法印 |
主君 | 土岐頼芸→斎藤道三→義龍→丹羽長秀→豊臣秀吉 |
氏族 | 青木氏 |
父母 | 父:青木某 |
子 | 一重、女(小寺則頼[2]室)、重経[3](渥美重経)、直継[4]、可直[5] |
青木 重直(あおき しげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
略歴
武蔵七党の一つ丹党の末で美濃国に流されたと称する青木氏の一族。ただし重直より前は、諸系図によって内容が異なり、確かではない。
『信長記』の一部によれば、永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙った刺客の一人だったという[6]。
斎藤氏滅亡後は織田氏家臣の丹羽長秀に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参加した[7]。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。
文禄2年(1593年)10月17日、摂津国豊島郡のうちで1,400石を与えられ、文禄4年(1595年)9月21日、菟原郡で360石を加増された[8]。この後に剃髪して浄憲と称し、刑部卿法印に叙された。
慶長18年11月21日(1614年元旦)、大坂で死去した。享年86。
遺領は長男の一重が相続した。
訪城日:2015.6.13・2016.12.10
江藤屋敷の石垣 虎口 南曲輪の敷石
安土城前掘
武藤屋敷の石垣
江藤屋敷を東側から 江藤屋敷の北石垣
観音寺城遠景
2015.6.13
「安土城」と「江藤屋敷」の間の堀切
江藤屋敷の石垣
空堀の安土城側石垣
空堀の江藤屋敷石垣 東側石垣(孕み崩落が激しいが)
虎口(屋敷内から)
参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、蒲生郡志
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安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した(伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物)
安土城
安土城 (滋賀県) | |
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安土城大手道
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城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存) |
築城主 | 織田信長 |
築城年 | 1576年(天正4年) |
主な改修者 | 羽柴秀吉 |
主な城主 | 織田氏、明智氏 |
廃城年 | 1585年(天正13年) |
遺構 | 天守台、曲輪、石垣、堀 |
指定文化財 | 国特別史跡 |
再建造物 | 一部の石垣・大手道石段・門跡 |
位 置 | http://yahoo.jp/TCtQmZ |
安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。
安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城である目加田(目賀田)支城があった。
安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。
この城を築城した目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。
日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。