見学会参加者+blog管理人(撮影)=9名
鯰江町自治会館の説明板
専修院境内土塁
専修院境内 鯰江氏の墓石・五綸の塔
鯰江町自治会館内の地割図 『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」
『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。
昭和60年の鯰江城土塁。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江城復元イラスト。(愛東の歴史ダイジエストより)鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)
現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」
鯰江バス停の鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」
志士「丹羽雅雄(福田卯之助)の顕著碑」明治18年(1887)故郷の鯰江村に建立された。(愛東の歴史ダイジエストより)
丹羽正雄之碑
愛知川右岸沿い、県道・外八日市線から鯰江集落へ入る坂道の東側に小さな緑地がある。「鯰江城趾」の説明板とともに、目をひくのが高さ三メートルちかい石碑である。もとは坂道西側に建っていたが、平成初年の緑地整備で現在地に移された。
石碑上部に、「丹羽正雄之碑」の題字。明治新政府で太政大臣をつとめた三条実美の書である。三条家は平安時代からつづく公卿の名門で、実美は二十一代目。
幕末の激動が、鯰江に生まれた一人の青年を、三条家の諸太夫(しょだいぶ=公卿の事務全般を司る職掌)丹羽家の嗣子に仕立て上げたのである。「丹羽正雄」の生い立ちから紹介する。
■青少年期の「正雄」
天保五年(一八三四)、鯰江村・福田市右衛門に二男が生まれた。卯之助と名付けられる。のちの丹羽正雄である。
卯之助は幼少期から向学の志がつよかった。金屋村(東近江市八日市金屋)瓢箪小路(ひょうたんこうじ=現・大凧通り)の医師・馬淵駿斎の門戸をたたき医学を学ぶ。また、儒学を蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)速水橘園から学んだ。
当時、浦賀沖に外国船が出没していた。嘉永六年(一八五三)には、ペリー艦隊が江戸湾入り口まで侵入した。世相は騒然。「開国か攘夷(外国を打ち払う)か」の議論が各地で沸騰した。卯之助十九歳、多感な青年の心にどんな思いが去来していたか。
■丹羽出雲守正雄
安政五年(一八五八)四月、井伊直弼が大老職についた。安政の大獄がはじまる。尊王攘夷派の公卿三条家の家臣・丹羽正庸(にわ・まさつね)が、捕縛・追放された。三条・丹羽両家で、正庸が果たしてきた役割を継ぐことのできる人物が必要となった。
安政六年(一八五九)、卯之助は丹羽家の養子に迎えられた。正庸と卯之助が尊王攘夷活動をつうじ面識があったためという。二年後、家督をえて卯之助は丹羽正雄を名乗る。同時に、出雲守に叙任。ここに、丹羽出雲守正雄が誕生した。二十七歳であった。
主家・三条家では実万(さねつむ)のあとを継ぎ、実美(さねとみ)が登場。急進派公卿のリーダー格となる。
実美は正雄より三歳年下である。実美にとっての正雄は、たんなる家臣というより、頼り甲斐のある相談相手でもあったにちがいない。正雄は実美の意を受け、尊王攘夷派の大名家や志士たちとの間に立ち活躍の場を広げる。
愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv
大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL
大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。
所在地:東近江市鯰江町http://yahoo.jp/nsrKCn 築 城 : 室町後期
初城主: 鯰江氏
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,石垣
城 域 :400m×250m
訪城日:2014.3.15
戦 い :元亀の乱・・・終焉
元亀4年(1573)
○織田信長VS六角義治
鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。
元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。
城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。
-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで
千種街道を往く20120428 http://blogs.yahoo.co.jp/t036kkkk/4876241.html
・信長の千種越え http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0a5be4a9b86ed952a3e2e6acd73a4dda
千草街道を往く・・・ 2011.4.29 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1f5cfc7b80a5ab85e276967523e6b9bf
歴史
鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。
永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。
発掘調査から
【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる】
室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。
調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。
安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城や小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。
本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。
鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)
豊臣秀次の側室「鯰江おこほ」。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江駿河守の子「権内」は井伊直政に仕え200石を知行。忠太夫は井元村の春日大社祭礼溝の最高位を務めている。「小倉忠太夫」屋敷絵図。中戸村集落の西部遺構は無く畑地。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江氏の末裔「小倉忠大太夫」
シリーズ「淡海の城」-鯰江城(なまずえじょう)(滋賀県東近江市愛東町鯰江)より
参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明
本日も訪問、ありがとうございました。