昨日は例月の如く「らくご道」へ。
南天襲名後最初の「らくご道」だが、
だからと言って客が増える訳でもなく、
また襲名したから特に何かする、ということもない。
そのあたり、如何にもこの会らしい。
「前説」(生喬)
OSKを見て感動した話、宝塚ファン落語会の話、
松喬の「試運転」の会の話、
南天襲名からメクリ関連の話。
「時うどん」(南天):○
マクラは襲名がらみで「こごろうとしての最後の会」「南天としての最初の会」の話。
個人的には、襲名の会で「動物園」を演るのも、
南天らしくて良いのでは、と思った。
刻の説明からネタに入る。
この喋り方が非常にきっちりしており、
習ったまま、という感じ。
都都逸ではなく「半分分け」から。
ここから「うどんを半分にする」につながっていくんだな。
豆を半分分けにする話まで、
アホの表情付けが濃くよくウケていた。
仕込みでの引っ張るのは、
1回目、2回目はうどん屋と喋っているタイミング、
3回目(最後)だけ食べかけている時。
うどん屋と喋っているタイミングで引くと、表情が見やすくて良いと思った。
アホが説明を受けて「うどん屋が九つと言う」ことは分かっているが
それと「1文誤魔化している」ことがつながらない、という作り。
この作りもあるかな。
個人的には、「同じように言ったら良い」は
ここで言ってしまう方が良いと思う。
バラシはあっさりと。
うどんは不味くせず、やっていた。
アホが「お連れさんも付けましょか」とうどん屋に言わせる際に、
自分の顔ではなく横(昨日自分がいた場所)を見て言うように、と
うどん屋に言っていた。
これは面白いが、良し悪しかも。
「その相手の存在を想定して言う」という
落語の基本的な見方が分かっていればこそ、伝わるギャグかも知れない。
「松島屋」に対する「河内屋」。
ギャグとして特に強く押す訳ではなく、違和感はなかった。
まあ、大ウケするものでもないが、
「2人目で上手くいかない」状況の予告、にはなるだろう。
ただ個人的には、不味くないうどんにするのであれば特に、
最後の「刻の間違い」に注力するために
ここに「偶然のズレ」の要素は入れない方が良いのでは、と思う。
「昨日と同様に残る分が1本少しになるように食べる」調整が入っていた。
分かりづらいかも知れないが、けっこうウケていた。
気色悪くなったうどん屋が「もう銭宜しいわ」と言うのに対し、
金を無理やり払う設定は良い。
「昨日と同じにやって誤魔化す遊びをやりたい」気持ちが優先され、
「金を得する」元が忘れ去られているのが面白い。
あるいは食べながら嬉しくなるあたりの表情が良い。
うどん屋の「五つでおます」でサゲていた。
実験としては面白いが、まあ、実際の営業などでは難しいかも知れない。
「高津の富」(生喬):○
山代温泉の余興の話、宿屋の競争の話からネタに入る。
ネタ固有のマクラ(昼の内は/夜になると)と重なる、と
少し感じた。
ネタはきっちり、かっちりと。
後でも言っていたが、特定の個人を深く描く、と言うよりは
「富くじに当たる人、当たらない人を巡る」点描なのだろう。
特に宿屋の主の反応、表情付けが濃く、
ここできっちりウケていた。
それを受けて、ホラ吹きのおやっさんの調子に乗っていく様子が作られていた。
「何が当たっても半分」は少し突拍子がないかなあ。
ここに持っていく流れが、どうすれば良いかちと分からん。
独りキチガイも流石。
全体に表情付けや周囲の人間との会話を通して人物描写を濃い目にやり、
きっちりと伝え、
特に目新しいことをやる訳ではないが
きっちりとウケをとっていた。
しかし、難しいネタだなあ。
対談「夕焼け日記」(生喬・南天)
襲名披露での話。
南光が枝雀のことを思い出していただろう、というのは、
なるほどなあ。
襲名の際に見た南天の家族の話、写真の話から
学生時代の落研での話。
一切落語に触れないまま(田舎から出てきたまま)松喬に弟子入りした状態の生喬は、
確かに想像しづらいな。
後半はネタについていろいろ。
サゲをどこまで言うか、正面を切って地に戻って言うか、
サゲの際の言い方など。