今月初め、東北に行ってきた。
震災から1年以上経過し、
原発がらみの話に比べて
地震や津波の被害やそこからの復興が報じられる機会が減っているが、
実際のところを自分の目で見たかった。
また震災直後に比べれば、行っても迷惑になることはないだろう、とも思った。
青春18を調達し、
1日かけて大阪から東京へ。
東京で1日芝居などを楽しんだ。
(芝居の感想は通し狂言「絵本合法衢」。)
東北に向かって旅立ったのは6日(木)朝。
池袋に泊まっていたので、
赤羽、宇都宮、黒磯、郡山、福島、仙台と乗り継ぎ、
15時半頃小牛田に辿り着いた。
小牛田からは気仙沼線の柳津に向かう。
一瞬、小牛田の行先案内で「津波」と見えてドキッとしたのだが、
石巻線も渡波で止まっているためにそう目に止まったのだった。
海に縁がある地名が多く、
必然的に津波による被害にも遭わざるを得ない地域なのだな、と
ここからも感じる。
【柳津駅行きの列車】
【小牛田駅の行先案内】
柳津から先は鉄道は不通になっており、宮城交通のバスが代替運行もしている。
気仙沼まで行くと戻ってくるのが無理なので、
途中の志津川まで行くことにした。
手持ちの時刻表より10分ほど遅れて出発。
ダイヤ改正されていた様子。
次第に暗くなっていく中、路線バスは山道を行く。
手前の陸前戸倉駅前を過ぎると、
左手に家の基礎らしきものが見え出した。
大して大きな川がある訳でもないので、何か違う理由だろう、と感じたのだが、
どうもそれも津波の被害に因るものらしい。
その内、山道から開けた場所に出た。
そこが志津川の集落、だったらしいのだが、
想像を絶する光景だった。
勿論テレビでも見ていたのだが、実際に見ると印象が全く違う。
テレビでは風景を切り取って受像機から流すだけだが、
四方八方、基礎のみ残る家の跡、
或いは取り崩しもされず立ったままの建物。
空襲後の東京の写真、なども見たことがあるが、
恐らくその光景と同じなのだろう。
その間をバスは走っていく。
しばらくして「志津川駅前」というバス停に着いたので、降りた。
駅前、と言われると、確かに駅前、なのだろう。
道の形はロータリーぽくなっている。
駅だったものは、その正面にあった。
残っているのはホームであったらしいコンクリートの地盤、
ホームであった証拠に点字ブロックは残っている。
線路が走っていたであろう砂利や路盤、
そして駅から駅前に出る階段、通路。
【志津川駅前】
【ホームへ向かう通路】
【ホーム】
次第に日は暮れていく。
ぐるりを見回したが、人がいない。
遠くに数人の中学生か高校生が歩いているだけ。
人の声はしない。
車の音はするが、それとてこの廃墟と化した街を通過していくだけ。
「そこにはただ風が吹いているだけ」という歌を思い出した。
確かにガソリンスタンドなどはあるのだが、
夕方だったせいもあるにもせよ、そこで止まる車とてなく。
捨て去られ、
このままビルディングの取り壊しも
家の土台が整地されることもなく、
この街は朽ちるに任せられるのではないか、という印象を受けた。
【志津川駅ホームから街を見る】
骨や壁ばかりで立ち残る建物や基礎のみの家、
瓦礫の山の前などを1時間ほど歩き、
駅前からバスで柳津に戻る。
小牛田から仙台に戻ってホテル泊。
志津川駅前は「復旧のスタートラインにも立っていない街」という印象を受けた。
復旧するためには、一度整地し、更地に戻して
元の建造物なり何なりを建設していく必要があるのだろうが、
その整地すら殆ど行われていないようだ。
海に近いこの街に再び住むことが認められるのか、
住める状態になるよう電気や水道は通されるのか、
しかし元々住んでいた場所に帰りたい、
そういった政治的な思惑やら感情やらが入り組み、
手足が縛られ、身動きできないまま放置されているのでは、と感じた。
【志津川での写真】
震災から1年以上経過し、
原発がらみの話に比べて
地震や津波の被害やそこからの復興が報じられる機会が減っているが、
実際のところを自分の目で見たかった。
また震災直後に比べれば、行っても迷惑になることはないだろう、とも思った。
青春18を調達し、
1日かけて大阪から東京へ。
東京で1日芝居などを楽しんだ。
(芝居の感想は通し狂言「絵本合法衢」。)
東北に向かって旅立ったのは6日(木)朝。
池袋に泊まっていたので、
赤羽、宇都宮、黒磯、郡山、福島、仙台と乗り継ぎ、
15時半頃小牛田に辿り着いた。
小牛田からは気仙沼線の柳津に向かう。
一瞬、小牛田の行先案内で「津波」と見えてドキッとしたのだが、
石巻線も渡波で止まっているためにそう目に止まったのだった。
海に縁がある地名が多く、
必然的に津波による被害にも遭わざるを得ない地域なのだな、と
ここからも感じる。
【柳津駅行きの列車】
【小牛田駅の行先案内】
柳津から先は鉄道は不通になっており、宮城交通のバスが代替運行もしている。
気仙沼まで行くと戻ってくるのが無理なので、
途中の志津川まで行くことにした。
手持ちの時刻表より10分ほど遅れて出発。
ダイヤ改正されていた様子。
次第に暗くなっていく中、路線バスは山道を行く。
手前の陸前戸倉駅前を過ぎると、
左手に家の基礎らしきものが見え出した。
大して大きな川がある訳でもないので、何か違う理由だろう、と感じたのだが、
どうもそれも津波の被害に因るものらしい。
その内、山道から開けた場所に出た。
そこが志津川の集落、だったらしいのだが、
想像を絶する光景だった。
勿論テレビでも見ていたのだが、実際に見ると印象が全く違う。
テレビでは風景を切り取って受像機から流すだけだが、
四方八方、基礎のみ残る家の跡、
或いは取り崩しもされず立ったままの建物。
空襲後の東京の写真、なども見たことがあるが、
恐らくその光景と同じなのだろう。
その間をバスは走っていく。
しばらくして「志津川駅前」というバス停に着いたので、降りた。
駅前、と言われると、確かに駅前、なのだろう。
道の形はロータリーぽくなっている。
駅だったものは、その正面にあった。
残っているのはホームであったらしいコンクリートの地盤、
ホームであった証拠に点字ブロックは残っている。
線路が走っていたであろう砂利や路盤、
そして駅から駅前に出る階段、通路。
【志津川駅前】
【ホームへ向かう通路】
【ホーム】
次第に日は暮れていく。
ぐるりを見回したが、人がいない。
遠くに数人の中学生か高校生が歩いているだけ。
人の声はしない。
車の音はするが、それとてこの廃墟と化した街を通過していくだけ。
「そこにはただ風が吹いているだけ」という歌を思い出した。
確かにガソリンスタンドなどはあるのだが、
夕方だったせいもあるにもせよ、そこで止まる車とてなく。
捨て去られ、
このままビルディングの取り壊しも
家の土台が整地されることもなく、
この街は朽ちるに任せられるのではないか、という印象を受けた。
【志津川駅ホームから街を見る】
骨や壁ばかりで立ち残る建物や基礎のみの家、
瓦礫の山の前などを1時間ほど歩き、
駅前からバスで柳津に戻る。
小牛田から仙台に戻ってホテル泊。
志津川駅前は「復旧のスタートラインにも立っていない街」という印象を受けた。
復旧するためには、一度整地し、更地に戻して
元の建造物なり何なりを建設していく必要があるのだろうが、
その整地すら殆ど行われていないようだ。
海に近いこの街に再び住むことが認められるのか、
住める状態になるよう電気や水道は通されるのか、
しかし元々住んでいた場所に帰りたい、
そういった政治的な思惑やら感情やらが入り組み、
手足が縛られ、身動きできないまま放置されているのでは、と感じた。
【志津川での写真】