ふと、表記の言葉について気になったので考えて見ることにした。
世間でよく言われる言葉としてその人が好きな対象に「愛○○」とつけていますね。
車に深い愛着を持ちそれを大事にしている人を「愛車家」と呼んだり、犬が大好きで深い愛情を注いでる人を「愛犬家」と言ったりしています。
また、妻を大事にして、どこに行くにも一緒の行動をする人を「愛妻家」などと呼んでいます。
それでは、愛人を大事にする人を「愛人家」と呼んでいるでしょうか?
一般には愛人家と言う言葉は使われません。
ここで愛人をさす言葉を漢字文化を持つ国ではどのように意味されているのか二つの事例を見てみましょう。
韓国語では「愛人(애인)」は「恋人」の意です。中国大陸の中国語でも「愛人」はそのまま「愛する人」の意で恋人という意味と「夫または妻」を指す言葉であり、現代日本語で言う「愛人」は「情人」と言います。
元々「愛人」という言葉は現在の日本で使われている意味とは違っていました。一例を挙げます。
「敬天愛人」という言葉がありました。この言葉の意味は次の通り。
敬天愛人(けいてんあいじん)とは天を敬い人を愛すること。
ここで言われている「愛人」は現在での用法とは違っています。
愛情を注ぐ相手が伴侶以外の人を今では愛人と呼んでいますが、かってはもっと広い意味で「人を愛すること」を示していたわけです。
余談ですが、私が卒業した高校の校歌にも次の一節がありました。
「敬天愛人理想を高く
おのれを修めて世のためつくす・・・」
というものです。
さて、記事の本位に戻りましょう。
愛人が現在のように「愛情の対象が伴侶以外の人」の意として使われたのは第二次大戦以後のことの様です。
戦前ではそれらの人を「愛妾」と言ってたようです。
愛妾(あいしょう)という言葉がすたれて愛人という言葉がそれに代わってきたのには、どんな理由が考えられるのでしょうか?
妾(めかけ)はもはや死語となった感がありますが、戦前にはこの言葉は市民権を得ていた言葉です。
例えば「妾腹(しょうふく)」と言う言葉がありました。また、妾の子と言う言葉も一般に使われていたようです。
妾の事を別の言葉では「囲われ者」とも称していました。
これ等の事からもわかるように、「妾」には支配・被支配がその根底にあるのです。
それが戦後、西欧から持ち込まれた「民主主義と男女同権思想」により支配・被支配の関係が同権の風潮に変化していきます。
その変化の中で「愛人(人を愛する事)」が同権の象徴として使われていったのではないかと想像できます。
これは私の全くの試論に過ぎないのですが、戦後に愛人と言う言葉が使われ始めたいきさつを、当時の新聞記事や小説での使われ方などを、調べてみると面白いかもしれません。
さて、現在の日本では「愛人」はどうも後ろめたさを伴って使われている事が多いようです。
芸能人や政治家の「愛人問題」はその人の社会的地位さえも脅かす事象にまでなる事もあります。
本来、個人の個別的思惟に関する事柄なのに、愛人問題が社会性を帯びて行くのは何故なのか?
個人の思惟が、社会の意思により糾弾されたり否定されるのは何故なのか?
「愛人問題」には個人と社会とのかかわりにおいて、基底的な事柄が含まれているような気がします。
ついでに言っておきますが、わたくしは個々人の愛人問題には全く興味は持ちません。
そんなことはその人個人の自由意思にかかわる事柄ですから。
社会は個人の間での自由意思には関わるべきではないと思います。
スケープ・ゴートを作り出し、それを不満のはけ口にするのは、民主主義の本来の姿ではないと思うのです。
世間でよく言われる言葉としてその人が好きな対象に「愛○○」とつけていますね。
車に深い愛着を持ちそれを大事にしている人を「愛車家」と呼んだり、犬が大好きで深い愛情を注いでる人を「愛犬家」と言ったりしています。
また、妻を大事にして、どこに行くにも一緒の行動をする人を「愛妻家」などと呼んでいます。
それでは、愛人を大事にする人を「愛人家」と呼んでいるでしょうか?
一般には愛人家と言う言葉は使われません。
ここで愛人をさす言葉を漢字文化を持つ国ではどのように意味されているのか二つの事例を見てみましょう。
韓国語では「愛人(애인)」は「恋人」の意です。中国大陸の中国語でも「愛人」はそのまま「愛する人」の意で恋人という意味と「夫または妻」を指す言葉であり、現代日本語で言う「愛人」は「情人」と言います。
元々「愛人」という言葉は現在の日本で使われている意味とは違っていました。一例を挙げます。
「敬天愛人」という言葉がありました。この言葉の意味は次の通り。
敬天愛人(けいてんあいじん)とは天を敬い人を愛すること。
ここで言われている「愛人」は現在での用法とは違っています。
愛情を注ぐ相手が伴侶以外の人を今では愛人と呼んでいますが、かってはもっと広い意味で「人を愛すること」を示していたわけです。
余談ですが、私が卒業した高校の校歌にも次の一節がありました。
「敬天愛人理想を高く
おのれを修めて世のためつくす・・・」
というものです。
さて、記事の本位に戻りましょう。
愛人が現在のように「愛情の対象が伴侶以外の人」の意として使われたのは第二次大戦以後のことの様です。
戦前ではそれらの人を「愛妾」と言ってたようです。
愛妾(あいしょう)という言葉がすたれて愛人という言葉がそれに代わってきたのには、どんな理由が考えられるのでしょうか?
妾(めかけ)はもはや死語となった感がありますが、戦前にはこの言葉は市民権を得ていた言葉です。
例えば「妾腹(しょうふく)」と言う言葉がありました。また、妾の子と言う言葉も一般に使われていたようです。
妾の事を別の言葉では「囲われ者」とも称していました。
これ等の事からもわかるように、「妾」には支配・被支配がその根底にあるのです。
それが戦後、西欧から持ち込まれた「民主主義と男女同権思想」により支配・被支配の関係が同権の風潮に変化していきます。
その変化の中で「愛人(人を愛する事)」が同権の象徴として使われていったのではないかと想像できます。
これは私の全くの試論に過ぎないのですが、戦後に愛人と言う言葉が使われ始めたいきさつを、当時の新聞記事や小説での使われ方などを、調べてみると面白いかもしれません。
さて、現在の日本では「愛人」はどうも後ろめたさを伴って使われている事が多いようです。
芸能人や政治家の「愛人問題」はその人の社会的地位さえも脅かす事象にまでなる事もあります。
本来、個人の個別的思惟に関する事柄なのに、愛人問題が社会性を帯びて行くのは何故なのか?
個人の思惟が、社会の意思により糾弾されたり否定されるのは何故なのか?
「愛人問題」には個人と社会とのかかわりにおいて、基底的な事柄が含まれているような気がします。
ついでに言っておきますが、わたくしは個々人の愛人問題には全く興味は持ちません。
そんなことはその人個人の自由意思にかかわる事柄ですから。
社会は個人の間での自由意思には関わるべきではないと思います。
スケープ・ゴートを作り出し、それを不満のはけ口にするのは、民主主義の本来の姿ではないと思うのです。
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