青森県と秋田県の県境に位置する矢立峠を下って行くと大館市陣場を経由して次の白沢宿に着く。白沢までは矢立峠からは現在の国道で約10キロ程の行程である。
陣場と白沢との中間あたりに「長走(ながばしり)」と言う集落があります。そこには「長走風穴(ながばしりふうけつ)高山植物群落」というものがあります。岩石の隙間より噴出す冷風により付近の標高(160Mより180Mぐらい)には見られない高山帯(1000Mほど)にしか生息しない高山植物の群生が見られるとの事です。国の天然記念物に指定されています。夏にここを通る旅人は噴出す冷風でしばしの涼をとり旅の英気を養ったかもしれません。
そこを少し過ぎると道路は旧街道への分かれに差し掛かります。左を行けば長走の集落の中を通る旧道です。右側は今まで通ってきた国道7号です。長走の集落は小さい集落ですぐまた元の国道に合流します。分岐点には羽州街道を示す道標が立てられています。
この木製の道標は秋田県内ではこれからはたびたび目にすることになります。青森県内の「羽州街道」の道標は立派な石柱でしたが秋田県では木柱が主に見られます。同じ国道(7号線)なのですがその違いは県民性の違いなんでしょうかね。(津軽の人は秋田に比べれば派手好きです。ねぷたを見れば解るとおもいますが。)木柱の方が、「味」があると思うのですが。
さて、白沢宿は、かっては矢立峠を難儀して越え最初にたどり着く所であったので旅人や馬がが一息いれたりする茶店や宿もあったのだろうが、現在では鉄道と道路の発達により往時をしのぶ物は何も無い。白沢駅に寄って見た。
こじんまりとした近代的な駅舎であった。これが古い木造駅舎であったならそれなりの雰囲気も感じられたのだろうが残念ながらどこにでも見られる建物である。勿論、無人駅である。この地区がかっての宿場であった事を表示させる物は少なくとも目には付かなかった。
白沢を出た街道は途中「芝谷地湿原植物群落」の側を通り釈迦内(大館市釈迦内)を経由して大館城下に入る。
大館は「秋田犬」で有名であるが秋田県第二の都市でもある。
羽州街道と、かっては南部蕃領に属していた花輪を経由して三戸方向へと向かう街道との合流点でもあり江戸時代には久保田蕃の大館城下として交通、産業の要地として栄えた。しかし、江戸時代末頃の戦役と数度の大火とにより城下の大半は焼失し当時の城郭や町並みなどは失われてしまっている。大館城下の歴史的探索はまたの機会に残しておき羽州街道の旅の先を急ごう。ここを通過した軌跡を表示しておきます。当時の街道そのままの道筋であったかは自信が在りませんが。
左上画像の下側の真中ぐらいには「街道端(かいどうばた)」と言う地名表示も在りますのでまんざらかけ離れたルートでもないでしょう。画像の赤線が大館市内を通過した軌跡です。
大館城下を羽州街道はさらに南下しますと、次の宿は川口です。現在「川口宿」は大館市川口となっております。
鉄道の駅は「下川添」駅です。川口集落は国道7号とほぼ平行に走る旧道にあります。この集落に用事のある人車しかここを通行する者はおりませんので静かで落ち着いた鄙びた道並となっています。このような道を通る時にはバイクの排気音さえ申し訳ないような気になります。駅に寄ってみました。
JR奥羽本線の下川添駅です。人っ子ひとりいません。街道に戻り集落の中を進むと、バス停の脇に郵便局がありました。
旧道はほどなく国道7号と合流しますが、その場所には川口神社の参道入り口があります。
国道7号との合流地点には羽州街道をしめす例の道標もありました。
そこの合流点を過ぎると街道は国道7号となりそのまま次の宿、繋子(つづれこ)へと向かいます。繋子(現在名、北秋田市鷹巣町繋子)の旧道は先ほど通ってきた川口と道並が似た集落でした。この地区には「繋子大太鼓」と呼ばれる物があります。繋子神社の例祭に大太鼓を引き打ち鳴らしながら練り歩くというものです。
この太鼓の大きさはギネスブックにも登録されているそうです。
さて、ここにはほかにも、由緒ある寺があります。寶勝寺という名の寺です。境内に入らせてもらいますとすばらしい大きさのしかも手入れの行き届いた樹木がありました。
かなりの巨木です。樹齢はどのくらいのものなのでしょうか。
表参道にある山門です。これまた古色蒼然とした佇まいのものでした。
裏参道までもが立派です。墓地も墓碑の数も多いところを見るとかなりの檀家数もあるのではないでしょうか。秋田市内にも中々このぐらいの規模の寺は少ないと思ってみてきました。いずれ再訪する機会があればこの宿場を詳しく見てみたいと思います。
次につづく
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陣場と白沢との中間あたりに「長走(ながばしり)」と言う集落があります。そこには「長走風穴(ながばしりふうけつ)高山植物群落」というものがあります。岩石の隙間より噴出す冷風により付近の標高(160Mより180Mぐらい)には見られない高山帯(1000Mほど)にしか生息しない高山植物の群生が見られるとの事です。国の天然記念物に指定されています。夏にここを通る旅人は噴出す冷風でしばしの涼をとり旅の英気を養ったかもしれません。
そこを少し過ぎると道路は旧街道への分かれに差し掛かります。左を行けば長走の集落の中を通る旧道です。右側は今まで通ってきた国道7号です。長走の集落は小さい集落ですぐまた元の国道に合流します。分岐点には羽州街道を示す道標が立てられています。
この木製の道標は秋田県内ではこれからはたびたび目にすることになります。青森県内の「羽州街道」の道標は立派な石柱でしたが秋田県では木柱が主に見られます。同じ国道(7号線)なのですがその違いは県民性の違いなんでしょうかね。(津軽の人は秋田に比べれば派手好きです。ねぷたを見れば解るとおもいますが。)木柱の方が、「味」があると思うのですが。
さて、白沢宿は、かっては矢立峠を難儀して越え最初にたどり着く所であったので旅人や馬がが一息いれたりする茶店や宿もあったのだろうが、現在では鉄道と道路の発達により往時をしのぶ物は何も無い。白沢駅に寄って見た。
こじんまりとした近代的な駅舎であった。これが古い木造駅舎であったならそれなりの雰囲気も感じられたのだろうが残念ながらどこにでも見られる建物である。勿論、無人駅である。この地区がかっての宿場であった事を表示させる物は少なくとも目には付かなかった。
白沢を出た街道は途中「芝谷地湿原植物群落」の側を通り釈迦内(大館市釈迦内)を経由して大館城下に入る。
大館は「秋田犬」で有名であるが秋田県第二の都市でもある。
羽州街道と、かっては南部蕃領に属していた花輪を経由して三戸方向へと向かう街道との合流点でもあり江戸時代には久保田蕃の大館城下として交通、産業の要地として栄えた。しかし、江戸時代末頃の戦役と数度の大火とにより城下の大半は焼失し当時の城郭や町並みなどは失われてしまっている。大館城下の歴史的探索はまたの機会に残しておき羽州街道の旅の先を急ごう。ここを通過した軌跡を表示しておきます。当時の街道そのままの道筋であったかは自信が在りませんが。
左上画像の下側の真中ぐらいには「街道端(かいどうばた)」と言う地名表示も在りますのでまんざらかけ離れたルートでもないでしょう。画像の赤線が大館市内を通過した軌跡です。
大館城下を羽州街道はさらに南下しますと、次の宿は川口です。現在「川口宿」は大館市川口となっております。
鉄道の駅は「下川添」駅です。川口集落は国道7号とほぼ平行に走る旧道にあります。この集落に用事のある人車しかここを通行する者はおりませんので静かで落ち着いた鄙びた道並となっています。このような道を通る時にはバイクの排気音さえ申し訳ないような気になります。駅に寄ってみました。
JR奥羽本線の下川添駅です。人っ子ひとりいません。街道に戻り集落の中を進むと、バス停の脇に郵便局がありました。
旧道はほどなく国道7号と合流しますが、その場所には川口神社の参道入り口があります。
国道7号との合流地点には羽州街道をしめす例の道標もありました。
そこの合流点を過ぎると街道は国道7号となりそのまま次の宿、繋子(つづれこ)へと向かいます。繋子(現在名、北秋田市鷹巣町繋子)の旧道は先ほど通ってきた川口と道並が似た集落でした。この地区には「繋子大太鼓」と呼ばれる物があります。繋子神社の例祭に大太鼓を引き打ち鳴らしながら練り歩くというものです。
この太鼓の大きさはギネスブックにも登録されているそうです。
さて、ここにはほかにも、由緒ある寺があります。寶勝寺という名の寺です。境内に入らせてもらいますとすばらしい大きさのしかも手入れの行き届いた樹木がありました。
かなりの巨木です。樹齢はどのくらいのものなのでしょうか。
表参道にある山門です。これまた古色蒼然とした佇まいのものでした。
裏参道までもが立派です。墓地も墓碑の数も多いところを見るとかなりの檀家数もあるのではないでしょうか。秋田市内にも中々このぐらいの規模の寺は少ないと思ってみてきました。いずれ再訪する機会があればこの宿場を詳しく見てみたいと思います。
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