ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

バイクで駆け足、羽州街道の旅(補足 綴子宿)

2011年09月17日 19時28分29秒 | 羽州街道
7月26日の記事で「バイクで駆け足、羽州街道の旅(その3、白沢より繋子まで)」を投稿したのであるが、最近その近くまでの所用のついでに綴子宿を探索してきました。

国道7号を大館方面に向かうと「道の駅たかのす」の手前700mほど手前を左に折れ坂を上るとすぐに綴子の集落に入る。
道なりに進むと左側に樹木が生茂っているのが目に入る。そこが「繋子神社」である。


この画像の左に映っているところが繋子神社です。

入り口の脇には神社の由来などを記した案内板があった。

「繋子神社」は「繋子の大太鼓」で有名であるが、江戸時代の紀行家菅江真澄が立ち寄った所でもある。
また、この神社には「千年桂」や「内舘文庫跡(うちだてぶんこあと)」があります。
「千年桂」の古木然とした佇まいはまさしく神木と呼べる佇まいがありました。
     

神社の境内には鎌倉時代より明治初期まで塾として地域の教育を担った内舘塾の跡があります。



由緒ある綴子神社の斜め向かいには寶勝寺の山門がひかえています。

この寺院にも風格ある古木があります。(7月26日の記事を参照ください。)
そして、その寺院の並びには羽州街道時の肝煎役 駅場役所跡や内藤湖南が下宿した跡と言うのもありました。
   

それらを見てさらにバイクを100mも進めると右側に本当の羽州街道の古道の入り口に差し掛かります。


この道標の矢印の方向に少し行くと程なく住宅の町並みも無くなり、山道となります。
その道は勿論舗装や砕石も施してない当時の面影をしのばせる風情ある古道となっていましたが足場が悪いようなのと道路に蛇がのさばっていたので走破を断念しました。(昔、林道をバイクで走行中に昼寝をしていた蛇を轢いてしまいその蛇が足に絡みつき大変な目にあった事がありましたので)

この古道を走破するには長靴を履き徒歩で行くのが最も最適でしょう。
しかしこの古道の出口がどこなのかは是非突き止めたいので集落の道路をうろつきまわり探し当てることが出来ました。


大堤一里塚(おおづづみいちりづか)と言うのがこの古道の途中にあるらしいのです。
この道標の左を進む(すなわち、綴子神社側の古道入り口方向に進む)と草木の隙間に道らしきものが見ることが出来ました。この道標から200mも行かないうちに一里塚跡がありました。


これがその場所でした。立派な案内板と石碑がありました。
       

その案内板の一角にはここを通った知名人の名も記載されていました。明治2年に榎本武揚もこの街道を通ったとのことです。
彼は函館戦争で敗北し官軍に捕縛されましたが、遠丸駕籠に乗せられて護送の旅路でどのような思いでこの街道を通って行ったのでしょうか。

大堤一里塚のあるこの付近の街道は時代劇に出てくるような雰囲気のある道です。
画像があまりよくありませんが雰囲気を感じ取っていただければさいわいです。


古道探索マニアなら羽州街道の「綴子宿」は絶対、オススメです。掘り出し物を見つけたような得した気分になれます。


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