最近は、手技療法のセミナーも数多く開催されるようになりました。
募集のPRを眺めていると、養成校で学ぶことを発展させたもの、より専門性が高いもの、より繊細な感覚をうたったものもよく見られるように思います。
それらのセミナーは「進学塾」のようなもの、と私は捉えています。
進学塾は学校で学ぶよりも、より進んだ内容を教えるところですね。
一方で、学校での学習を補う「学習塾」もあります。
学校で学ぶことをもっとかみ砕いて教え、理解し習得できるようにするところです。
私は現在の手技療法の世界には、学習塾のような存在が足りていないと思っています。
手技療法はわが国の国家資格なら、あん摩マッサージ指圧師を除くほとんどの養成校で十分な履修時間が取られていません。
資格として仕方ない面もあるのですが、卒業後、働く現場によっては手技療法が求められ、先輩から教わったことを見よう見まねで行っているケースもあります。
ところが基本の習得が不十分だと、効果を挙げにくく、また自分の身体も傷めやすい。
また、あん摩マッサージ指圧師の養成校でも、ひたすら型を反復させる練習が中心です(少なくとも私が受けた教育は)。
反復練習は技術取得の重要な要素ですが、ただ反復させるだけでは気づく人は気づくけど、そうでない人はポイントが理解できないまま反復し続けることになります。
ですから学習塾のように技術をかみ砕いて教え、ポイントをより習得しやすくした上で、反復練習をする必要があります。
進学塾と学習塾を比べた場合、進学塾のほうが華があるように見えて、そちらに足が向いてしまうのは仕方ありません。
専門職には、より高度で繊細な技術が求められますから。
でも、もし自分の実力がそれに見合っていない場合、レベルの差が大きければ大きいほど習得は難しくなります。
身の丈に応じたことをしないのは、自分も苦しく、コントロールが難しいために患者さんにも迷惑をかける可能性があります。
だから、学校でカバーしきれない基本をかみ砕いて教えて反復させる。
その上で個人の関心や能力、あるいは現場からの要請に応じた方向に進んで行けばいい。
私はそのような学習塾スタイルで、セミナーを行っていきたいと考えています。
「練習はフルスイングから!」が合言葉なので、
それを「くもん式(苦悶式)」とも呼ぶ方もおられますが・・・^^;
募集のPRを眺めていると、養成校で学ぶことを発展させたもの、より専門性が高いもの、より繊細な感覚をうたったものもよく見られるように思います。
それらのセミナーは「進学塾」のようなもの、と私は捉えています。
進学塾は学校で学ぶよりも、より進んだ内容を教えるところですね。
一方で、学校での学習を補う「学習塾」もあります。
学校で学ぶことをもっとかみ砕いて教え、理解し習得できるようにするところです。
私は現在の手技療法の世界には、学習塾のような存在が足りていないと思っています。
手技療法はわが国の国家資格なら、あん摩マッサージ指圧師を除くほとんどの養成校で十分な履修時間が取られていません。
資格として仕方ない面もあるのですが、卒業後、働く現場によっては手技療法が求められ、先輩から教わったことを見よう見まねで行っているケースもあります。
ところが基本の習得が不十分だと、効果を挙げにくく、また自分の身体も傷めやすい。
また、あん摩マッサージ指圧師の養成校でも、ひたすら型を反復させる練習が中心です(少なくとも私が受けた教育は)。
反復練習は技術取得の重要な要素ですが、ただ反復させるだけでは気づく人は気づくけど、そうでない人はポイントが理解できないまま反復し続けることになります。
ですから学習塾のように技術をかみ砕いて教え、ポイントをより習得しやすくした上で、反復練習をする必要があります。
進学塾と学習塾を比べた場合、進学塾のほうが華があるように見えて、そちらに足が向いてしまうのは仕方ありません。
専門職には、より高度で繊細な技術が求められますから。
でも、もし自分の実力がそれに見合っていない場合、レベルの差が大きければ大きいほど習得は難しくなります。
身の丈に応じたことをしないのは、自分も苦しく、コントロールが難しいために患者さんにも迷惑をかける可能性があります。
だから、学校でカバーしきれない基本をかみ砕いて教えて反復させる。
その上で個人の関心や能力、あるいは現場からの要請に応じた方向に進んで行けばいい。
私はそのような学習塾スタイルで、セミナーを行っていきたいと考えています。
「練習はフルスイングから!」が合言葉なので、
それを「くもん式(苦悶式)」とも呼ぶ方もおられますが・・・^^;
手技療法の世界にいると、感覚(経験)を重視する立場とエビデンスを重視する立場が、互いに批判しあっているところを目にすることが時々あります。
他の分野でも似たようなことはきっとあるでしょうが、それを見るたびに残念な気持ちになります。
感覚(経験)とエビデンスの違いを道路で例えるなら、獣道や砂利道のような未舗装の道路と、アスファルトで固めた舗装道路の違いではないかと私は思っています。
この場合、感覚(経験)が獣道・砂利道で、エビデンスは舗装道路です。
砂利道は舗装道路より簡単に作ることができますが、多くの人や車を効率よく通すには向いていません。
多少の悪路でも気にせずガンガン行けるという人たちもいますが、そのような方ばかりではないですから都市のインフラとしては弱いものがあります。
同様に、感覚は精度に個人差はあっても触れればわかるので取り掛かりやすいものです。
感覚の世界にガンガン突き進む方もいますが、疑問を感じて踏みとどまる人もいます。
だから感覚的・経験的に得られた結論を、広く世間一般で共有するのは難しいかもしれません。
これに対して舗装道路は作るまでには手間隙かかりますが、出来上がってしまえばより多くの人や車を通すことができます。
やはり舗装された道のほうが快適で安心だという方は多いでしょう。
エビデンスが出来るまでには手間暇かかりますが、それを作ることによってより多くの人が安心して利用しやすくなるはずです。
でも、すべての道が舗装されているわけではないし、未舗装でも必要とされ役立っている道はたくさんあります。
同じように未だエビデンスが得られていない方法でも、経験的には有効だから現場では使われているものも現実としてある。
さらに既にある道に飽き足らず、あえて人が通っていないような獣道を切り開いて進もうする開拓者もいるでしょう。
同じように前例がなくても、リスクを回避しながら新たに考案した方法を作っていこうとする人たちもいます。
こうして道路ができていく順序を考えると、はじめに開拓者によって獣道みたいなものがをでき、次いで砂利道となってやがて舗装道路が作られる。
それらの道は別々のものではなく、より多くの人が快適に使える段階の違いです。
感覚とエビデンスも道路のようなものだとすると、それらはより多くの人が納得できる段階の違いであって、別々のものではないということになります。
経験や感覚から生み出された仮説が、検証されることによってエビデンスとなる。
感覚で道を拓いてエビデンスで道を固める。
以上のように見てみると、感覚派(経験派)とエビデンス派に分かれて互いを批判しあうのはちょっと違うような気がします。
感覚に優れた人もいれば、エビデンスの構築に関心を持っている人もいるので、それぞれが得意な分野に力を注ぎながら、互いに弱いところをカバーしていけばよいのだろうと思います。
結局のところ、道路にせよ手技療法にせよ大切なのは、私たちが生きていくうえで役に立つかどうかであり、その役立ち度合いの裏づけとなるのが経験でありエビデンスなのでしょうから。
他の分野でも似たようなことはきっとあるでしょうが、それを見るたびに残念な気持ちになります。
感覚(経験)とエビデンスの違いを道路で例えるなら、獣道や砂利道のような未舗装の道路と、アスファルトで固めた舗装道路の違いではないかと私は思っています。
この場合、感覚(経験)が獣道・砂利道で、エビデンスは舗装道路です。
砂利道は舗装道路より簡単に作ることができますが、多くの人や車を効率よく通すには向いていません。
多少の悪路でも気にせずガンガン行けるという人たちもいますが、そのような方ばかりではないですから都市のインフラとしては弱いものがあります。
同様に、感覚は精度に個人差はあっても触れればわかるので取り掛かりやすいものです。
感覚の世界にガンガン突き進む方もいますが、疑問を感じて踏みとどまる人もいます。
だから感覚的・経験的に得られた結論を、広く世間一般で共有するのは難しいかもしれません。
これに対して舗装道路は作るまでには手間隙かかりますが、出来上がってしまえばより多くの人や車を通すことができます。
やはり舗装された道のほうが快適で安心だという方は多いでしょう。
エビデンスが出来るまでには手間暇かかりますが、それを作ることによってより多くの人が安心して利用しやすくなるはずです。
でも、すべての道が舗装されているわけではないし、未舗装でも必要とされ役立っている道はたくさんあります。
同じように未だエビデンスが得られていない方法でも、経験的には有効だから現場では使われているものも現実としてある。
さらに既にある道に飽き足らず、あえて人が通っていないような獣道を切り開いて進もうする開拓者もいるでしょう。
同じように前例がなくても、リスクを回避しながら新たに考案した方法を作っていこうとする人たちもいます。
こうして道路ができていく順序を考えると、はじめに開拓者によって獣道みたいなものがをでき、次いで砂利道となってやがて舗装道路が作られる。
それらの道は別々のものではなく、より多くの人が快適に使える段階の違いです。
感覚とエビデンスも道路のようなものだとすると、それらはより多くの人が納得できる段階の違いであって、別々のものではないということになります。
経験や感覚から生み出された仮説が、検証されることによってエビデンスとなる。
感覚で道を拓いてエビデンスで道を固める。
以上のように見てみると、感覚派(経験派)とエビデンス派に分かれて互いを批判しあうのはちょっと違うような気がします。
感覚に優れた人もいれば、エビデンスの構築に関心を持っている人もいるので、それぞれが得意な分野に力を注ぎながら、互いに弱いところをカバーしていけばよいのだろうと思います。
結局のところ、道路にせよ手技療法にせよ大切なのは、私たちが生きていくうえで役に立つかどうかであり、その役立ち度合いの裏づけとなるのが経験でありエビデンスなのでしょうから。
「細かな触診が難しいです」「繊細な感覚がわかりません」
というお悩みを時々伺います。
細かな触診の感覚というのは『わずかな違いを大きく感じられる』感覚ともいえます。
誰でも魚の小骨が歯と歯の隙間に挟まったら、とっても大きく感じられるのでないでしょうか。
わずかなものを大きく感じているのですね。
すでに身につけている感覚です。
触診の感覚を磨くというのは、特殊な力を身につけることではありません。
そのようなすでに身につけている能力を、他でも使えるように練習していくだけです。
だから決して身構えないように、焦らないように。
感覚というのは「難しい」とか「わからない」と思うと、余計にわからなくなるものですから。
自分で勝手にハードルを上げるようなことをしてはいけません。
焼き魚を食べるときは、のどに骨が刺さらないよう注意して慎重にかみ砕きます。
でも決して変に身構えたりせず、自然な感じで食べています。
触診もそんなつもりで練習を繰り返していく。
それに尽きるのではないかと思います。
というお悩みを時々伺います。
細かな触診の感覚というのは『わずかな違いを大きく感じられる』感覚ともいえます。
誰でも魚の小骨が歯と歯の隙間に挟まったら、とっても大きく感じられるのでないでしょうか。
わずかなものを大きく感じているのですね。
すでに身につけている感覚です。
触診の感覚を磨くというのは、特殊な力を身につけることではありません。
そのようなすでに身につけている能力を、他でも使えるように練習していくだけです。
だから決して身構えないように、焦らないように。
感覚というのは「難しい」とか「わからない」と思うと、余計にわからなくなるものですから。
自分で勝手にハードルを上げるようなことをしてはいけません。
焼き魚を食べるときは、のどに骨が刺さらないよう注意して慎重にかみ砕きます。
でも決して変に身構えたりせず、自然な感じで食べています。
触診もそんなつもりで練習を繰り返していく。
それに尽きるのではないかと思います。
「今後の人生を考えるといろいろ不安だけど、オステオパシーを学んでいきたい」
という主旨のメッセージを若手のセラピストさんからいただき、私なりの「学ぶ」ということについて返信させていただきました。
とくに若い方々の参考になればと思い、こちらでもご紹介させていただきます。
以下本文の一部
・・・
不安になるのは迷いがあるためかもしれませんが、迷う必要はありませんよ。
生涯かけてオステオパシーを学ぶ!と意欲的になるのは良いのですが、必要以上に肩肘を張る必要もないでしょう。
私たちが真に学ばなければいけないのは、結局のところ、人間とは?生命とは?ということではないかと思います。
そして人間を学ぶなら、年中無休で一緒にいる自分自身から学ぶことがいちばん (^^)
主体的に自己を見つめ、そこから人間、生命を学ぼうとし、その態度を保ち続ける。
オステオパシーを含む手技療法は、自己を学ぶための手段のひとつでしかないと思います。
オステオパシー哲学といいますが、哲学とはひとつの考え方、ものの見方ですから。
そして、自己を学ぶことを通して、人さまの、社会の役に立つことを行うのが仕事というものなのでしょう。
隣接領域の運動、栄養、心理、医学、薬学をはじめ、政治、社会、経済、科学、芸術、宗教なども皆同じかもしれません。
反対に、自己を学ぶということなくただ概念の世界を巡り続ける。
あるいは手段にとらわれ続けたなら、何を学んだとしても、社会的な体裁はともかく、内面的な満足と安心を得ることは難しいのではないかと思います。
私が学びを楽しんでいるように見えるとしたら、たぶんそのあたりに理由があるのかも。
今この瞬間に、自分の心と体と環境との間で起こっている事実を直視し、そこから学ぼうとするならば、手段はそれぞれの関心に応じて気楽に選べばよいのだろうと思います。
「何でもいいけど どうでもよくない」わけですね 笑
一回の呼吸、一歩の歩み、その時々の心の揺れから学んでいってくださいね。
という主旨のメッセージを若手のセラピストさんからいただき、私なりの「学ぶ」ということについて返信させていただきました。
とくに若い方々の参考になればと思い、こちらでもご紹介させていただきます。
以下本文の一部
・・・
不安になるのは迷いがあるためかもしれませんが、迷う必要はありませんよ。
生涯かけてオステオパシーを学ぶ!と意欲的になるのは良いのですが、必要以上に肩肘を張る必要もないでしょう。
私たちが真に学ばなければいけないのは、結局のところ、人間とは?生命とは?ということではないかと思います。
そして人間を学ぶなら、年中無休で一緒にいる自分自身から学ぶことがいちばん (^^)
主体的に自己を見つめ、そこから人間、生命を学ぼうとし、その態度を保ち続ける。
オステオパシーを含む手技療法は、自己を学ぶための手段のひとつでしかないと思います。
オステオパシー哲学といいますが、哲学とはひとつの考え方、ものの見方ですから。
そして、自己を学ぶことを通して、人さまの、社会の役に立つことを行うのが仕事というものなのでしょう。
隣接領域の運動、栄養、心理、医学、薬学をはじめ、政治、社会、経済、科学、芸術、宗教なども皆同じかもしれません。
反対に、自己を学ぶということなくただ概念の世界を巡り続ける。
あるいは手段にとらわれ続けたなら、何を学んだとしても、社会的な体裁はともかく、内面的な満足と安心を得ることは難しいのではないかと思います。
私が学びを楽しんでいるように見えるとしたら、たぶんそのあたりに理由があるのかも。
今この瞬間に、自分の心と体と環境との間で起こっている事実を直視し、そこから学ぼうとするならば、手段はそれぞれの関心に応じて気楽に選べばよいのだろうと思います。
「何でもいいけど どうでもよくない」わけですね 笑
一回の呼吸、一歩の歩み、その時々の心の揺れから学んでいってくださいね。
「10月に予定していた股関節の手術、痛みも動きも良くなったのでキャンセルしました」
股関節の症状でみえていた方がそうおっしゃっいました。
先日も脊柱管狭窄症の手術を予定されていた方が、手術しなくて良いところまで回復されました。
これは診断としての疾患名よりも、筋肉のコリや硬さなど機能障害のほうが、症状に影響を与えている割合が大きかったから良くなったわけで、何も特別なことではありません。
良くなるべくして良くなっただけです。(だから反対に、難しいものは難しいとも言えます)
ただ今回少し感慨深かったのは、お二人をご紹介してくださったのが整形外科の医師だったということ。
これまで手術を予定されている方が来院されることはあったのですが、整形外科からのご紹介なんてありませんでした。
どちらかというと、この業界は斜めに見られていることが多いですし、そう見られても仕方のない状況ではありすから。
理解のある先生はまだまだ少ないと思いますが、少しずつ変わっていっている。
そんな空気を感じました。
それを大切に育てていきたい。
だから「病院では治らなかった症状が・・・」というPRを打ち出しているうちは、業界としてはまだまだレベルが低い。
病院と対決姿勢を取っているだけで、役割の違いを打ち出せていないわけですから。
それぞれの役割の違いを社会全体として認識し、状況に応じたサービスを迷うことなく受けることができる。
そんな世の中にしていきたいですね。
股関節の症状でみえていた方がそうおっしゃっいました。
先日も脊柱管狭窄症の手術を予定されていた方が、手術しなくて良いところまで回復されました。
これは診断としての疾患名よりも、筋肉のコリや硬さなど機能障害のほうが、症状に影響を与えている割合が大きかったから良くなったわけで、何も特別なことではありません。
良くなるべくして良くなっただけです。(だから反対に、難しいものは難しいとも言えます)
ただ今回少し感慨深かったのは、お二人をご紹介してくださったのが整形外科の医師だったということ。
これまで手術を予定されている方が来院されることはあったのですが、整形外科からのご紹介なんてありませんでした。
どちらかというと、この業界は斜めに見られていることが多いですし、そう見られても仕方のない状況ではありすから。
理解のある先生はまだまだ少ないと思いますが、少しずつ変わっていっている。
そんな空気を感じました。
それを大切に育てていきたい。
だから「病院では治らなかった症状が・・・」というPRを打ち出しているうちは、業界としてはまだまだレベルが低い。
病院と対決姿勢を取っているだけで、役割の違いを打ち出せていないわけですから。
それぞれの役割の違いを社会全体として認識し、状況に応じたサービスを迷うことなく受けることができる。
そんな世の中にしていきたいですね。
先日のセミナーでのこと。
いつもは手技療法の実技ばかりやっていますが、ひょんなことから問診の注意点も少しお話させていただきました。
それは手技療法を行うなら「問診だけで見切ったつもりにならず、可能な限り患部に触れて状態を確認する」ということです。
視診(動作分析)についても同じことがいえるでしょう。
そして「触れる際には、問診で得た情報はいったん頭の脇に置いて触れる」つまり「先入観を持って触れない」ということ。
先入観を持って触れると手から伝わる情報を、自分の考えに都合の良いよう解釈しやすいからです。
あくまで触診で得られた情報からそれが何を意味するかを検討し、問診で得られた情報とつじつまが合うか照合していくようにします。
例えばひとつのケースとして、問診で安静時の持続痛や、視診にて多方向への運動時痛が同じ部位に出現していれば、組織破壊とそれに伴う炎症が生じていると考え、患部に対して直接介入するのは禁忌と判断するかもしれません。
でもそれだけで見切ったつもりにならず、先入観を持たずに患部に触れてその状態を確認しましょう。
(もちろん激痛で身動きがとれない時など例外はあります)
炎症が起きている部位には、熱感と共に組織の脆弱性や局所性の浮腫、もしくは腫れを伴う過緊張がみられます。
発赤は浅いところや強い炎症ならわかいやすいのですが、深部にある時は確認しにくいもの。
その時は「熱感」が手掛かりになります。
手でそっと患部に触れると、表面はさほどでもなくても、奥のほうから温かさを感じることがあります。
ちょうどストーブから離れたところで、手をかざしているような感じでしょうか。
目を閉じていても熱源がどのあたりか大よそ見当がつく、ということと似ているかもしれません。
触れずにかざしたほうがよくわかるという場合はそれでもOK。
自分のわかりやすいほうで行えばよいでしょう。
私は念のため、両方用いることもあります。
実際に触れてみて、周囲より患部の温度が高くなっているようなら、炎症を起こしている可能性はより高くはなるでしょう。
けれども、これで決定とはなりません。
問診や視診によって安静時痛と運動時痛を認めても、比較的軽度であり、触診で熱感があっても、脆弱性や強い腫張がない。
そんな時、試験的に周囲の緊張を低下させてみると、熱感が引いて安静時痛・運動時痛が軽減することもあります。
結果的にこの場合の症状は、炎症より充血による影響が大きかったのかもしれません。
あるいは、安静時痛や運動時痛があり、触診で熱感を患部の認めても脆弱性や強い腫脹はないという同じ状況に加え、、局所的な緊張を触知できるなら、それは活動性のトリガーポイントによる症状のこともあります。
この場合は、患部に対して刺激量を考慮しつつ、直接的にアプローチしていくことも私は検討します。
適応と禁忌の鑑別についてはグレーゾーンも少なくありません。
だからこそ簡単に見切らず、必ず患部に触れてその状態を確認すべきです。
患者さんの心情としても、患部の状態を確認しないまま治療を進めて改善感が乏しかった場合、不安や不信感を持ってしまうこともあるかもしれません。
遠隔的なアプローチをする場合、特にそうでしょう。
「問診で8割は決まる」という話もあるくらい、問診は非常に重要なもの。
けれども手技療法を用いるのであれば、触診による情報も重視されるべきであり、そのための触診能力は高めておかなければならないと思います。
いつもは手技療法の実技ばかりやっていますが、ひょんなことから問診の注意点も少しお話させていただきました。
それは手技療法を行うなら「問診だけで見切ったつもりにならず、可能な限り患部に触れて状態を確認する」ということです。
視診(動作分析)についても同じことがいえるでしょう。
そして「触れる際には、問診で得た情報はいったん頭の脇に置いて触れる」つまり「先入観を持って触れない」ということ。
先入観を持って触れると手から伝わる情報を、自分の考えに都合の良いよう解釈しやすいからです。
あくまで触診で得られた情報からそれが何を意味するかを検討し、問診で得られた情報とつじつまが合うか照合していくようにします。
例えばひとつのケースとして、問診で安静時の持続痛や、視診にて多方向への運動時痛が同じ部位に出現していれば、組織破壊とそれに伴う炎症が生じていると考え、患部に対して直接介入するのは禁忌と判断するかもしれません。
でもそれだけで見切ったつもりにならず、先入観を持たずに患部に触れてその状態を確認しましょう。
(もちろん激痛で身動きがとれない時など例外はあります)
炎症が起きている部位には、熱感と共に組織の脆弱性や局所性の浮腫、もしくは腫れを伴う過緊張がみられます。
発赤は浅いところや強い炎症ならわかいやすいのですが、深部にある時は確認しにくいもの。
その時は「熱感」が手掛かりになります。
手でそっと患部に触れると、表面はさほどでもなくても、奥のほうから温かさを感じることがあります。
ちょうどストーブから離れたところで、手をかざしているような感じでしょうか。
目を閉じていても熱源がどのあたりか大よそ見当がつく、ということと似ているかもしれません。
触れずにかざしたほうがよくわかるという場合はそれでもOK。
自分のわかりやすいほうで行えばよいでしょう。
私は念のため、両方用いることもあります。
実際に触れてみて、周囲より患部の温度が高くなっているようなら、炎症を起こしている可能性はより高くはなるでしょう。
けれども、これで決定とはなりません。
問診や視診によって安静時痛と運動時痛を認めても、比較的軽度であり、触診で熱感があっても、脆弱性や強い腫張がない。
そんな時、試験的に周囲の緊張を低下させてみると、熱感が引いて安静時痛・運動時痛が軽減することもあります。
結果的にこの場合の症状は、炎症より充血による影響が大きかったのかもしれません。
あるいは、安静時痛や運動時痛があり、触診で熱感を患部の認めても脆弱性や強い腫脹はないという同じ状況に加え、、局所的な緊張を触知できるなら、それは活動性のトリガーポイントによる症状のこともあります。
この場合は、患部に対して刺激量を考慮しつつ、直接的にアプローチしていくことも私は検討します。
適応と禁忌の鑑別についてはグレーゾーンも少なくありません。
だからこそ簡単に見切らず、必ず患部に触れてその状態を確認すべきです。
患者さんの心情としても、患部の状態を確認しないまま治療を進めて改善感が乏しかった場合、不安や不信感を持ってしまうこともあるかもしれません。
遠隔的なアプローチをする場合、特にそうでしょう。
「問診で8割は決まる」という話もあるくらい、問診は非常に重要なもの。
けれども手技療法を用いるのであれば、触診による情報も重視されるべきであり、そのための触診能力は高めておかなければならないと思います。
私のセミナーでは、まずはフルスイングで、しっかりと強い刺激を加えて練習するよう指示しています。
それはどのようなスポーツでも、はじめは大きく力強いフォームで練習するところから始めるということと理由は同じです。
大きなフォームでしっかり操作できるようになっておけば、コンパクトなフォームになっても身体を使った操作が行いやすいはず。
同時に手技療法を臨床で用いるなら、どこまでの刺激が限界なのかを身体で知っておく必要がある。
そのように考えています。
刺激については、この業界の中には強い刺激の手技療法に対して否定的な考え方もあります。
「強い刺激は組織を傷める」
「強い刺激はクセになって、さらに強い刺激を求めるようになる」etc
だから「強い刺激はよくない!」
確かに一理あるかもしれませんが、この考え方は私には、
「辛い食べ物は胃腸を傷めるから、身体によくない」
と言っているのに等しく聞こえます。
辛い食べ物を食べればお腹を壊し、翌朝お尻がたいへんなことになる人も確かにいます(私もそう
)。
その時に胃腸の粘膜を調べたら、もしかするとタダレている様子が確認できるかもしれません。
そうなると臨床症状と共に、客観的な証拠が示されていることになります。
だからといって、それを根拠にして全面的に「辛い食べ物はよくない」としたら、みなさんは素直に納得されるでしょうか。
きっと「体温をあげて代謝を高める」というような、辛い食べ物のメリットも考えて首を傾げる方も多いと思います。
辛い食べ物が合わない人や、身体が弱っている時には食べないほうがいいけど、体に合う人や健康な時ならいい。
常識的にはそのように、個人差や状況に合わせて判断し使い分けているはず。
そのようなバランスの取れた常識的判断が専門分野になると何故か抜け落ち、一面的な議論になっていることも時にあるように思います。
先ほどとは反対に、強い刺激を良しとする立場でもそれは同じ。
「強い刺激だからこそ効く」
「強い刺激で効かなかったり、クセになるのはセラピストが下手だから」
私も臨床では強い刺激を用いることが多い立場で、その効果は実感しています。
でも強い刺激をいつでもどこでも、誰にでも加えてよいとしているわけではありません。
(個人的には同業の人相手だと、調子に乗ってやり過ぎて失敗することはあります
)
辛い料理だけが料理のすべてではないことと同じ。
だから「強い刺激だから効く」というのも一面的な考え方です。
以上のような一面的な考え(仮説・理論)に振り回されないようにするには、自分の「目」と「手」で確認したことを学んだ知識に照らし合わせつつ、批判的な思考力で判断できる「頭」を持った、自立したセラピストになる必要があります。
そして「手」で確認できるようになるためには、弱い刺激から強い刺激まで使い分けることが出来る、振り幅の広い技術を身につけておいたほうがよいと私は考えています。
そのために練習では、フルスイングで身体を大きく動かしてしっかり刺激を加えられるようになっておくと共に、これ以上は危険というラインを身体で体験して覚えておく。
その上で、状況に応じた刺激の使い分けやコントロールを行えるようになるように、自分で自分の技術を信頼できるようになるまで練習する。
つまり私がフルスイングで練習するよう指示している意図は、やがては定説ですら疑いを持つような自立したセラピストになるということを目指してのことです。
誰かの話を鵜呑みにするのではなく、自分の拠りどころを自分自身に求められるセラピストになるように。
そんな願いを込めて。
セミナーも治療も「痛いこと」が強調されがちなので、私のやっていることだけ見ていたら、伝わりにくいかもしれませんが
それはどのようなスポーツでも、はじめは大きく力強いフォームで練習するところから始めるということと理由は同じです。
大きなフォームでしっかり操作できるようになっておけば、コンパクトなフォームになっても身体を使った操作が行いやすいはず。
同時に手技療法を臨床で用いるなら、どこまでの刺激が限界なのかを身体で知っておく必要がある。
そのように考えています。
刺激については、この業界の中には強い刺激の手技療法に対して否定的な考え方もあります。
「強い刺激は組織を傷める」
「強い刺激はクセになって、さらに強い刺激を求めるようになる」etc
だから「強い刺激はよくない!」
確かに一理あるかもしれませんが、この考え方は私には、
「辛い食べ物は胃腸を傷めるから、身体によくない」
と言っているのに等しく聞こえます。
辛い食べ物を食べればお腹を壊し、翌朝お尻がたいへんなことになる人も確かにいます(私もそう

その時に胃腸の粘膜を調べたら、もしかするとタダレている様子が確認できるかもしれません。
そうなると臨床症状と共に、客観的な証拠が示されていることになります。
だからといって、それを根拠にして全面的に「辛い食べ物はよくない」としたら、みなさんは素直に納得されるでしょうか。
きっと「体温をあげて代謝を高める」というような、辛い食べ物のメリットも考えて首を傾げる方も多いと思います。
辛い食べ物が合わない人や、身体が弱っている時には食べないほうがいいけど、体に合う人や健康な時ならいい。
常識的にはそのように、個人差や状況に合わせて判断し使い分けているはず。
そのようなバランスの取れた常識的判断が専門分野になると何故か抜け落ち、一面的な議論になっていることも時にあるように思います。
先ほどとは反対に、強い刺激を良しとする立場でもそれは同じ。
「強い刺激だからこそ効く」
「強い刺激で効かなかったり、クセになるのはセラピストが下手だから」
私も臨床では強い刺激を用いることが多い立場で、その効果は実感しています。
でも強い刺激をいつでもどこでも、誰にでも加えてよいとしているわけではありません。
(個人的には同業の人相手だと、調子に乗ってやり過ぎて失敗することはあります

辛い料理だけが料理のすべてではないことと同じ。
だから「強い刺激だから効く」というのも一面的な考え方です。
以上のような一面的な考え(仮説・理論)に振り回されないようにするには、自分の「目」と「手」で確認したことを学んだ知識に照らし合わせつつ、批判的な思考力で判断できる「頭」を持った、自立したセラピストになる必要があります。
そして「手」で確認できるようになるためには、弱い刺激から強い刺激まで使い分けることが出来る、振り幅の広い技術を身につけておいたほうがよいと私は考えています。
そのために練習では、フルスイングで身体を大きく動かしてしっかり刺激を加えられるようになっておくと共に、これ以上は危険というラインを身体で体験して覚えておく。
その上で、状況に応じた刺激の使い分けやコントロールを行えるようになるように、自分で自分の技術を信頼できるようになるまで練習する。
つまり私がフルスイングで練習するよう指示している意図は、やがては定説ですら疑いを持つような自立したセラピストになるということを目指してのことです。
誰かの話を鵜呑みにするのではなく、自分の拠りどころを自分自身に求められるセラピストになるように。
そんな願いを込めて。
セミナーも治療も「痛いこと」が強調されがちなので、私のやっていることだけ見ていたら、伝わりにくいかもしれませんが

時々相談にみえる患者さん。
今回は、頭から首へのコリ感と鈍痛の訴えでいらっしゃいました。
首の動きはさほど支障なく、倒すとつっぱる程度。
拝見するとあちこちにコリがあって、身体も傾いています。
コリをほぐし、左右のバランスを回復させたら症状も落ちつきました。
ところが翌日には症状が再発し、しばらくすると発疹が出てきたとの連絡が入りました。
すぐに皮膚科へ受診されるよう勧めたところ、結果は帯状疱疹。
受診時を振り返れば、痛みもヒリヒリ、チクチクではなく、重くコッた感じ。
注意を要する安静時の症状ではあったけれど、強いものではなく、ふつうのコリでも起こり得る程度。
何か見落としていたところはないか?といろいろ考える。
ややこしいのは、治療によって症状が改善したということ。
改善しなければ「ナゼか?」を考えるけど、なまじ良くなるとその場での判断は難しい。
二千年前からある東洋医学の古典に
「病の生ずるは 極めて微 極めて精なり (黄帝内経 素問)」
という下りがあったと記憶しているけど、初期段階での鑑別は今も昔も難しいもの。
でも難しいながらも、何かしらのサインが出ていないか、常に注意してのぞむ姿勢は必要。
そして一度良くなった時に、それで身体を見切ったように思わないこと。
身体は常に変化するものだし、場合によっては腫瘍だったということもあり得るのだから。
だから評価というものは、常に暫定的なものという意識を忘れない。
改めてその大切さを思い知らされ、反省したケースでした。
今回は、頭から首へのコリ感と鈍痛の訴えでいらっしゃいました。
首の動きはさほど支障なく、倒すとつっぱる程度。
拝見するとあちこちにコリがあって、身体も傾いています。
コリをほぐし、左右のバランスを回復させたら症状も落ちつきました。
ところが翌日には症状が再発し、しばらくすると発疹が出てきたとの連絡が入りました。
すぐに皮膚科へ受診されるよう勧めたところ、結果は帯状疱疹。
受診時を振り返れば、痛みもヒリヒリ、チクチクではなく、重くコッた感じ。
注意を要する安静時の症状ではあったけれど、強いものではなく、ふつうのコリでも起こり得る程度。
何か見落としていたところはないか?といろいろ考える。
ややこしいのは、治療によって症状が改善したということ。
改善しなければ「ナゼか?」を考えるけど、なまじ良くなるとその場での判断は難しい。
二千年前からある東洋医学の古典に
「病の生ずるは 極めて微 極めて精なり (黄帝内経 素問)」
という下りがあったと記憶しているけど、初期段階での鑑別は今も昔も難しいもの。
でも難しいながらも、何かしらのサインが出ていないか、常に注意してのぞむ姿勢は必要。
そして一度良くなった時に、それで身体を見切ったように思わないこと。
身体は常に変化するものだし、場合によっては腫瘍だったということもあり得るのだから。
だから評価というものは、常に暫定的なものという意識を忘れない。
改めてその大切さを思い知らされ、反省したケースでした。
「手技療法で触診をしている時、どこに意識を置いたらいいのでしょうか?
」
そんな質問をいただいたことがありました。
どこに意識を置いて治療しているかは、経験を積んだ治療家でもそれぞれ違うかもしれません。
意識はかたちがハッキリと見れないものですし、私も自分の『意識』を常に意識しているわけではありません。
だから、的確な答えはなかなか難しいところ。
練習を重ねて場数を踏むことはとても大切ですが、指導する側として「とにかく場数を踏め」だけでは芸がありません。
そのため、触診の時の意識を感覚的にイメージしていくための方便として
「車を運転している時の、目の使い方と同じですよ
」
とお話ししています。
免許を持っている方なら運転中、進行方向に対して全体を眺めるようにしつつ、視線は近くや遠く、右や左に移動させて、安全を確認しながら運転していると思います。
触診の意識も同じようなものと、わかりやすさを優先してそう喩えています。
言い換えたら「一点だけを見ていると事故る」
「よそ見をしていると事故る」ということ。
『~する』を『~するべからず』としたら、
「一点に留まるべからず」「気を散らすべからず」
そんな感じでしょうか。
スポーツでもきっと同じではないかと思います。
とはいえ車の運転なら乗り始めの頃は、どうしても目の前に集中してしまうもの。
きっと、多くの方が経験していることでしょう。
いきなり全体を見るなんてセンスのある人ならできるかもしれませんが、全員に求めるのはムリがあります。
ふつうは運転に慣れるに従って、視野が広がっていきます。
手技療法でも同じことで、いきなり全体を診るよう意識するのはムリがあるでしょう。
ですから私は触診の基本を伝えるとき、はじめは
「まわりと比べて硬いところ」を意識して触れるようにお話ししています。
これなら慣れない方でも比較的わかりやすいのではないでしょうか。
運転なら目の前を見ている状態です。
次いで、路上に出るようになって道路が混み始めて来たら、2~3台前の車のブレーキランプに注意して運転するでしょう。
触診でも触れたところから、次第に深い部分へと意識を移していきます。
やがて、スピードを出す高速道路に乗るようになったら、視線は遠くを見るようになります。
視線の先と、自分の車の間を走っている他の車との位置関係を大よそ把握しながら運転し、必要に応じて近くにも視線を移します。
触診でも遠くに視線を移すように、さらに深いところに意識を移していきます。
たとえば触れた身体の反対側に意識を置いて、手と意識を置いている反対側との間を感じ取ろうとする。
あるいは、加えた力がどのように伝わっているかを感じ取ろうとする、など。
反対側に意識を置くというと、不思議な感じがするかもしれませんが、わかるかどうかは別にしてそのつもりで診るということ。
不思議と意識を遠くに置いたほうが、近くのものを感じ取りやすいということもあります。
さらに運転に慣れてくると、隣の車線を走っている車が、ウインカーも出さないで車線変更しようとする動きを、はじめの挙動の段階で察知するようになります。
触診でも慣れてくると、離れた部分に違和感を持つようになります。
挙動不審な車に自然と目が行くように、挙動不審な組織???に意識が行く感じですね。
いかがでしょう。
このようにみれば触診の時の意識も、車の運転と同じように段階的に学べばよく、自分の能力に応じて用いればよい、ということがお分かりいただけるでしょうか。
身の丈に応じた臨床を、「わかる」ところから、「できる」ところから、「浅い」ところから行っていけばよいわけですね。
ちなみにちょっとマニアックな話しですが、私が触診時の意識の用い方で勉強になったのは、武人の心法を記した「不動智神妙録」という沢庵和尚の本です。
沢庵和尚は江戸時代の禅僧で、宮本武蔵や柳生宗矩・十兵衛の小説にもよく出て来る方です。
(かくいう私は、ケンカや勝負ごとにはめっぽう弱いのです(^-^; )
技術や発想法というものを学ぶときに、昔の人の本はとても役に立ちました。
興味を持たれた方はググってみてください

そんな質問をいただいたことがありました。
どこに意識を置いて治療しているかは、経験を積んだ治療家でもそれぞれ違うかもしれません。
意識はかたちがハッキリと見れないものですし、私も自分の『意識』を常に意識しているわけではありません。
だから、的確な答えはなかなか難しいところ。
練習を重ねて場数を踏むことはとても大切ですが、指導する側として「とにかく場数を踏め」だけでは芸がありません。
そのため、触診の時の意識を感覚的にイメージしていくための方便として
「車を運転している時の、目の使い方と同じですよ

とお話ししています。
免許を持っている方なら運転中、進行方向に対して全体を眺めるようにしつつ、視線は近くや遠く、右や左に移動させて、安全を確認しながら運転していると思います。
触診の意識も同じようなものと、わかりやすさを優先してそう喩えています。
言い換えたら「一点だけを見ていると事故る」
「よそ見をしていると事故る」ということ。
『~する』を『~するべからず』としたら、
「一点に留まるべからず」「気を散らすべからず」
そんな感じでしょうか。
スポーツでもきっと同じではないかと思います。
とはいえ車の運転なら乗り始めの頃は、どうしても目の前に集中してしまうもの。
きっと、多くの方が経験していることでしょう。
いきなり全体を見るなんてセンスのある人ならできるかもしれませんが、全員に求めるのはムリがあります。
ふつうは運転に慣れるに従って、視野が広がっていきます。
手技療法でも同じことで、いきなり全体を診るよう意識するのはムリがあるでしょう。
ですから私は触診の基本を伝えるとき、はじめは
「まわりと比べて硬いところ」を意識して触れるようにお話ししています。
これなら慣れない方でも比較的わかりやすいのではないでしょうか。
運転なら目の前を見ている状態です。
次いで、路上に出るようになって道路が混み始めて来たら、2~3台前の車のブレーキランプに注意して運転するでしょう。
触診でも触れたところから、次第に深い部分へと意識を移していきます。
やがて、スピードを出す高速道路に乗るようになったら、視線は遠くを見るようになります。
視線の先と、自分の車の間を走っている他の車との位置関係を大よそ把握しながら運転し、必要に応じて近くにも視線を移します。
触診でも遠くに視線を移すように、さらに深いところに意識を移していきます。
たとえば触れた身体の反対側に意識を置いて、手と意識を置いている反対側との間を感じ取ろうとする。
あるいは、加えた力がどのように伝わっているかを感じ取ろうとする、など。
反対側に意識を置くというと、不思議な感じがするかもしれませんが、わかるかどうかは別にしてそのつもりで診るということ。
不思議と意識を遠くに置いたほうが、近くのものを感じ取りやすいということもあります。
さらに運転に慣れてくると、隣の車線を走っている車が、ウインカーも出さないで車線変更しようとする動きを、はじめの挙動の段階で察知するようになります。
触診でも慣れてくると、離れた部分に違和感を持つようになります。
挙動不審な車に自然と目が行くように、挙動不審な組織???に意識が行く感じですね。
いかがでしょう。
このようにみれば触診の時の意識も、車の運転と同じように段階的に学べばよく、自分の能力に応じて用いればよい、ということがお分かりいただけるでしょうか。
身の丈に応じた臨床を、「わかる」ところから、「できる」ところから、「浅い」ところから行っていけばよいわけですね。
ちなみにちょっとマニアックな話しですが、私が触診時の意識の用い方で勉強になったのは、武人の心法を記した「不動智神妙録」という沢庵和尚の本です。
沢庵和尚は江戸時代の禅僧で、宮本武蔵や柳生宗矩・十兵衛の小説にもよく出て来る方です。
(かくいう私は、ケンカや勝負ごとにはめっぽう弱いのです(^-^; )
技術や発想法というものを学ぶときに、昔の人の本はとても役に立ちました。
興味を持たれた方はググってみてください
