内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思い出だけが美しい ― 浄化としての想起

2013-07-14 21:00:00 | 随想

 「思い出だけが美しい」という人がいるかと思えば、「思い出すだけでも、いまだに腸が煮えくり返る」という人もいる。両者真っ向から対立しているように見える。後者の場合、その過去の忌まわしい出来事が今も感情を揺さぶり続け、そこから距離を取ることができないままだと言っているのに等しい。さらに深くその人を傷つけた出来事の場合は、それを思い出すこと自体があまりにも辛いゆえ、それを拒否し、無意識の内に抑圧しようとする心理的機制が働きもする。だが、これら後者の場合は、それだけで深刻な問題であるから、いずれまた改めてゆっくり考察することにして、今日は、「思い出の美しさ」、あるいは、「思い出すことにおける美の経験」について考えてみよう。
 「思い出だけが美しい」というのは一種誇張された表現だとも言える。〈現在〉における美の体験の例を私たちは容易に挙げることができるだろうから。とすれば、この表現は、美しいもの・ことは思い出の中にしかない、ということが言いたいのではなく、むしろ、思い出すときにのみ現成する美しさ、そのときにしか経験できない美しさがある、一言で言えば、想起における美の固有性のことを言わんとしているのではないだろうか。
 この想起における美の固有性を考えようとするとき、過去の美の体験、例えば、かつて私たちが実際に接した、美しい絵画、風景、音楽などの例を挙げることは、かえって事柄そのものに接近しにくくさせるかもしれない。なぜなら、それらの場合、過去において体験された美と想起において現前する美との区別という問題が入り込んでくるからである。そこでは、後者を前者と同一視する、後者を前者によって根拠づける、などの過ちに陥りがちだ。それらを注意深く避けなくてはならない。
 そこで、よりわかりやすく、誰にでもありうる例として、失恋の経験を考えてみよう。別れは辛いものだ。その直後は、食事も喉を通らない、誰とも会いたくない、夜も眠れない、もうこれ以上生きていても意味はないとまで思い詰めることだってあるだろう。自分は不幸なままで、別れた相手だけが幸せになることなど許せない、と激しい嫉妬に身を苛まれることもあるだろう。辛い思いをし続けることは耐えがたいから、早く忘れてしまいたいと、慌てて別の相手を探す、あるいは、何か別に熱中できることを見つけて、とにかく別れた相手を思い出さないようにあれこれ試みる人もいるだろう。これらの苦しみがいつまで続くのか、わからない。数週間、数ヶ月、あるいは数年。
 〈今〉、それらすべての苦悩は、もう心を疼かせなくなったとしよう。自力でそれらを乗り越えたかどうかは問わない。それはどちらでもよい。それまでの苦しみを忘れている自分に、あるとき、ふと気づく。もう以前のように無理をしなくともよい。そのとき、好きだった、あるいは今でも好きなその人が、まったく新たな相貌のもとに私の前に立ち現れる。それは、ただただ美しい。いったい何が私に起こっているのか、何が私に到来しているのか。それは考えが変わったなどという日常的なレベルの出来事ではない。自らの作為による過去の美化に成功したということでもない。心的外傷の自然治癒ということにも尽きない。自分が人間的に成長した、「大人になった」ということとも違う。
 私はこう考える。そのとき、思い出すという仕方でのみ経験しうる他者との関係が〈私〉においてはじめて成立したのだ。想起が〈私〉にもたらすのは、その時その時の直接的な関係において体験された種々の感情・情念・感覚から浄化された〈他者〉の姿なのだ。それは、過ぎゆく時間を超えて変わらぬもの、〈真なるもの〉の到来である。それは美しい、ただひたすらに美しい。私たち誰にも到来しうる、この〈想起における美〉、これを「恵み」と呼ばずになんと呼べばいいのだろう。