内的自己対話-川の畔のささめごと

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鏡の中のフィロソフィア(準備編4) ― 講義ノートから(7)

2013-07-19 16:00:00 | 哲学

 肖像画の誕生がいつの時代なのか、正確にはわからないが、不完全な被造物である人間を描き、その人物像を当のモデルの死後にまで残そうという考えが、キリスト教世界に生まれるのは古代末期から中世初期のようである。しかし、それは当時の宗教界で特別に称賛を集めていた人物に限られており、それ以外の人物の肖像画が現れるのは、それがたとえ時の王ないし王族、あるいは貴族階級に属する人物であれ、ずっと後のことである。
 自画像の誕生はそれよりさらに遅れる。それは、画家が単なる複製の制作に携わる無名の職人にとどまるのではなく、自身が描かれるに値する人間であると画家自身が自らを見なすことができるようになる時代まで待たなければならなかった。そして、それに加えて、正確な自己像を得るために必要な精度の高い鏡の製造という技術的条件が満たされなければ、自画像作成は可能とはならなかったことは言うまでもないであろう。
 西洋絵画史において、自画像に芸術作品としての地位を与えることに最初に成功した画家デューラー(1471-1528)の生きた時代が、ガラス製鏡の製作技術の黎明期と一致するのは、だから、決して偶然ではない。しかし、デューラーの自画像の革新的な意味は、単に芸術作品として価値がある精密な自画像の作成に成功したという芸術史上の貢献に尽きるのではない。思想史的観点から見れば、キリストの顔立ちをした正面からの自画像を書くことによって、デューラーは、〈神の似姿〉としての人間に新たな意味を与えたのである。1人の具体的な人間、ある時代と場所に限定された特定の個人である自分自身を〈神の似姿〉として描くことによって、この〈私〉における神の現前を宣言しているのである。しかし、それは、けっして神を冒涜しようとしての前代未聞の暴挙なのでなく、人間における神性の回復の宣言なのである。
 以下は『鏡の文化史』からの引用。

 キリストの表情を持ち、真っ正面を向いて、厳かな、そして「万物の支配者」たる神のしぐさをして手を上げている自画像をデューラーが1499年に描いたとき、彼は当時の習慣と決別し、斜め正面からの肖像画と手を切った。それはイエス・キリストのまねびによって練り上げられていく、模範者たる神の影であるキリスト者のアイデンティティを、まさしく際立たせんがためである。自分の顔の特徴をもっとも細かいところまで再現することにより、描かれているのが紛れもなく自分であるということをわからせようとしたのであり、こうしてデューラーは、神の似姿たる人間を生み出しうる芸術家の力量をはっきりと示した。つまり、この絵が表しているのは、この世における彼の存在という歴史的現実であり、そしてまたそれと同時に、キリストの受肉によってその似姿たる人間で回復された栄光の肉体を先取りする神秘的融合という現実なのである(138頁)。