内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア(現場レポート2)

2013-07-30 21:00:00 | 講義の余白から

 集中講義2日目。はじめに、昨日の講義の終わりに学生たちに書いてもらった小レポートについてのコメント。それらレポートに含まれていた質問にもすべて口頭で答えた後、ようやく本題の「鏡の中の哲学」に入る。まずは新一年生のために昨年度の内容の要約。それから『鏡の文化史』そのものから私が選んだ箇所を、私の方で補足説明を加えながら、みんなで読んでいく。今日のところは昨年度の講義の最終回に読んだ箇所に立ち戻って、そこでの問題をより詳しく解説したところで終了。それも含めて、『鏡の文化史』の内容については、すでにこのブログで「鏡の中のフィロソフィア(準備編)」としてかなり詳しく紹介したので、ここには繰り返さない。
 昨日の記事で予告した Pierre Hadot の Exercices spirituels et philosophie antique の紹介を、少しばかり始めることにする。この本の紹介は、たとえ一通りするだけでも数回の記事を要するだろう。しかし、それを理由に、あるいは準備不足だからと、尻込みしていてはいつまでたっても始められそうにないから、とにかく今日始める。
 著者のピエール・アド(1922-2010)は、古代ギリシア・ローマ哲学研究においてフランスを代表する碩学として知られていたばかりでなく、彼自身1人の哲学者として、専門領域を超えて、数多くの研究者たちから尊敬を集めていた。徹底した文献調査に基づいた息の長いその研究によって、古代哲学のテキストの読み方に決定的とも言える転換をもたらし、その重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないほどだが、ここでは、その研究の結果としてアドが規定した古代哲学の本質についてのみ紹介する。なぜなら、それは、専門家の関心をはるかに超えて、一般の読者にさえ、「哲学とは何か」という問いを根本から考え直させるだけのインパクトを持っているからである。ちなみに、このアドの古代哲学研究がミッシェル・フーコーの晩年の哲学に決定的な影響を与えたことはよく知られている。
 アドによれば、古代において、哲学とは、一言にして言えば、「生き方そのものの根本的な変化をもたらす日常の実践」にほかならない。その実践をアドは、"exercice spirituel" と呼ぶ。この表現自体は彼の造語ではないが、この語の意味するところについて、彼は自身の緻密な古代哲学研究に基づいて繰り返し詳細な説明を与えている。というのも、どちらの語も一般に使用される語であるが、それだけに様々な誤解も生みやすいからである。
 まず、 « exercice » の方だが、これは「練習、訓練、実行」等を意味するが、肝心な点は、それが単なる練習ではなく、実際に行われることであり、しかも繰り返し行われることであり、さらには単なる繰り返しではなく、実際に生活の中で繰り返し実行されることによって、ある生き方の習熟・熟達をもたらすもののことであるという点である。しかし、さらに誤解を引き起こしやすいのは « spirituel » の方である。それについてはアド自身が十分に自覚している。これを「精神的な」あるいは「霊的な」と訳したのではアドの真意は伝わらない。なぜならこの語にアドが与えている意味は、「人間の全存在に関わる、その本質にかかわる」ということだからである。だから、「肉体」に対立する「精神」、前者から独立した後者が問題なのではなく、いわば「肉体を持った精神」「肉体において働く精神」とも言うべき人間存在の全体性が問題なのである。"Exercice spirituel" は、このような意味を込めて使われているのだから、「全人格的実践」とでも訳すべきだろうか。その内実については、明日以降、少しずつ紹介していく。