内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十)

2014-06-15 00:00:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(8)

 最後期西田哲学における生命論への〈種〉概念の導入が引き起こさざるを得ない理論的困難を取り上げた本節の締め括りとして、もう一つの重要な論点を指摘しておきたい。
 6月11日の記事に引用した、西田が生物的種としての〈民族〉概念に与えた定義を、今一度思い起こしてみよう。「種は個性的現実を媒介として相対し相争ふのである。個性的現実を媒介として民族と民族とが相対し相争ふことによつて民族が民族となるのである」(全集第八巻)。民族を種として実体化し、あたかも一つの意志を有った主体として行動できるかのように考える、このような〈生命〉一般論が容易に戦争肯定の論理として利用されうることはすぐに見て取れることである。自己実現・自己保存・自己発展をそれぞれに意志する複数の民族間の対立が引き起こす紛争、さらには戦争を正当化する論理として西田の生命論を利用することを禁ずる理論的装置は、その生命論そのもの中には組み込まれていない。
 このような西田の生命一般論は、それが無媒介に人間の共同体の歴史に適用されるとき、定義上、戦争の可能性を容認せざるを得なくなるばかりでなく、進化は闘争を必然的に孕むという歴史観に立って、戦争に或る積極的な価値を与えてしまうことも論理的に避けがたい。このような歴史観に立てば、種としての民族は、相対立し、相争うほかないものとなり、しかも、諸個人は種に一方的に帰属させられ、無差別的にそこに同化させられてしまうから、諸個人はそれぞれの唯一性という価値を剥奪されてしまわざるを得ない。
 しかしながら、西田の歴史的生命の論理は、他方で、個物 ― 行動する身体的自己である私たち個人 ― に、創造的世界である歴史的生命の世界における創造的要素という、他のものには還元できない価値を与えていることを忘れるわけにはいかない。歴史的生命の論理は、個人にとっての一つの自立的行動原理としても発展させ得る。なぜなら、西田の論理に従えば、それぞれの個人は、己が属する進化的な共同体の中にあって、一つの己に固有な創造的役割を果たし、既存の権威が己の個人としての創造性を脅かし排除しようとするときには、その権威を拒否することができる一個の独立した存在としての身分を有つという帰結を導き出しうるからである。自己形成的な世界の或る場所或る時代に生きるものとしての個人の有限性と特殊性とにそれとして価値を与えることによって、歴史的生命の論理は、上に見たような理論的陥穽に対して無防備な生命一般論を超克する契機を、少なくともその可能態において、内包してもいるのである。