内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十一)

2014-07-06 02:03:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(6)

 ミッシェル・アンリは、昨日の記事の最後に立てられた問いに対して、カントによって入念に規定された感覚の審級に言及しつつ、自身の哲学に引きつけた解答を提出している。アンリによれば、世界の現われの存在論的な貧しさは、ハイデガーに固有なテーゼから結果するものではなく、すでにカントの『純粋理性批判』の中に見出される。『純粋理性批判』は、世界の問題を現象学的なものとして把握する。それゆえ、そこでの批判は、世界の現象学的構造の極めて厳密な記述から成っている。世界の現象学的構造は、空間と時間との純粋な直観の先験的諸形式と悟性の諸々の範疇との両者から構成されている。純粋な直観の形式とは、この形式がその都度見えるものとして現われさせる「経験的」と呼ばれる特定の偶発的な内容とは独立に、それとして捉えられた、見ること・現われることを成り立たせる純粋な形式のことである(voir Incarnation, op. cit., p. 68)。
 ところが、このように様々な形で見えるものをそれとして現われさせる連関し一貫した作用を通じての世界の現象学的形成は、それ自体によっては、この世界の具体的な内容を構成する現実を措定することは決してできない(voir ibid.)。ここにおいて、世界の現われのその内に現われるものに対しての無力さは、世界の現象学的形成がそれ自体によっては世界の現実を措定できないという無能さとまさに同一化されている。アンリによるこのような現われの諸形式批判は、その表象批判と不可分の関係にある。なぜなら、表象は、それが空虚な形式であるかぎり、それ自体によって現実的経験へと到達することも、それ自体によって現実を露呈することも不可能だからである(voir Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 129)。
ここで問われなければならないのは、次のような問いである。どこで、またどのようにして、世界の具体的な内容は、己に己自身を与える自己贈与という形で、存在が具体的に置かれる場所となることができるのか。