内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(三十)― 「離脱」から「永遠の誕生」へ(一)

2015-04-27 05:59:44 | 哲学

 「離脱 abegescheidenheit」と「放下 gelâzenheit」という二つの根本語によって帯電されたエックハルト神秘思想の圏域にいくらかでも接近するための予備的考察として、キリスト教史の枠内でのライン河流域神秘主義の思想史的・系譜学的祖述をここまで続けてきた。その作業を今日から三回の一連の記事で一応締めくくり、しばらくこの問題から離れる。エックハルトのテキストそのものの本格的な読解に取り組む準備はまだ十分にはできていないというのがその主な理由である。今からいつとは決めがたいが、いつかまたこの問題に立ち戻ってくるであろう。
 これまで垣間見たエックハルトの言述からだけでもわかることだが、その表現の中には、それを当時のキリスト教世界の歴史的文脈から切り離しても、いやむしろ切り離すことによってさらに、煌きを増すかのような言葉が随所に見られる。このエックハルトのテキストの「神秘的」魅惑は、その思想を、それが生まれた歴史的文脈とはまったく異なった文脈の中で形成された他の世界の「神秘的」あるいは「秘教的」思想と比較することへと私たちを誘惑してやまない。
 事実、そのような試みも少なくない。人は、イスラム教、ヒンズー教、道教、あるいは禅仏教の中にエックハルト思想の谺を聞き取ろうとする。あるいは、それらの間の「表層的」表現の差異の彼方に通底するであろう根本思想を見出そうとする。しかし、世界思想史の幾重にも積み重なった厚い地層のさらに奥の深層にまで知的・霊的探究を試みることができるのは、一世紀に何人かしか出ないようなごく少数の大天才だけであろう。
 厳密な校訂を経たテキストに基づいたエックハルト研究が本格化するのは、一九三〇年代半ばに批判的全集の刊行が始まって以降のことである。特に、そのラテン語著作の重要性が強調されるようになったのは、ラテン語著作集がほぼ完成してからのここ数十年間のことに過ぎない。それまでは、エックハルトの独創性を賞揚するにしても、それはもっぱら不完全な校訂しか経ていないドイツ語説教のテキストにのみ依拠していた。しかも、この説教は、エックハルト自身によって書かれたものではない。弟子たちなど説教を聴いた者たちの手によって編集されたものである。だから、それらは、厳密な意味では、エックハルトの著作とは言えない。それゆえ、ドイツ語説教のみによってエックハルトの思想を語ることは、最初から学問的手続きとして大きな問題を孕んでいるのである。ましてや、そこから抽出された神秘主義的教説を、まったく伝統を異にした宗教の教説と比較して、両者の親近性を云々することには、テキスト・クリティックを基礎とした思想史研究の立場からすれば、大きな踏み外しの危険がいつも付き纏う。