内的自己対話-川の畔のささめごと

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「集団的個体」という概念が抱える根本的矛盾 ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(5)

2015-07-01 06:02:17 | 読游摘録

 ヴァンサン・デコンブは、「集団的個体」(« individu collectif »)という概念の検討を、フランスの人類学者ルイ・デュモン(Louis Dumont, 1911-1998)による問題提起を叙述することから始める。
 デュモンによれば、「集団的個体」という概念は、不可欠でありかつ不可能である。
 それが不可欠であるというのは、他から判明に区別された一つの国家(言い換えれば、「個体」として自己規定する集合)に、他の同様に「個体」として規定される諸国家と同じように、己が属している一つの「全体社会」を表象する手段を与えるからである(今日の「人類社会」や「地球社会」などという言い方がこれに相当する)。「国家」が一つの集団的個体であるという考え方は、それが根本的に個体主義的社会論であることを意味している。しかし、この意味での「近代的」国家は、それが一つの有機的全体であることを意味しない。なぜなら、国家は、それが政治的権利において平等な市民の共同体として定義されるかぎり、そのような考えとは相容れないからである。
 では、「集団的個体」という概念が不可能だというのは、どういう意味でなのか。それは、定義上それ以上分割できない「個体」(« individu »)が複数の個体から成っているということは論理的にあり得ないからである。一つの複合的な存在の構成要素がそれぞれの個体性を保持するとすれば、そのときそれら構成要素によって構成される全体は、「寄せ集め」、「寄り合い」、「集合」以上のものではなく、時が経てばそれが個体化するということはない。
 このような意味で、「集団的個体」という概念は、現代世界を考えるときに不可欠でありながら、論理的な矛盾を内包しているのである。
 この論理的困難に取り組むために、デコンブ氏は、分析哲学の方法を導入する。なぜなら、唯名論、普遍概念、個体化問題は、分析哲学にとって馴染みのテーマだからである。その中でも特に唯名論的観点から、デコンブ氏は、問題の論理的分析を試みる。
 この論理的分析は、いかなる言説に対しても、それを構成している論理的原子にまで解体することから成っている。この論理的原子論の目的は、私たちが存在すると言っているものすべては二つのクラスに分けられることを示すことにある。その二つのクラスとは、「単純要素(論理的原子)」とそれらの要素からなる「構成物」とである。ある物体が原子から成る構成物であるとか、国家が人々から成る構成物であるとか言う場合がこのようなクラス分けに対応している。