内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「すべて」と「全体」との論理的差異(4)― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(9)

2015-07-05 08:19:16 | 読游摘録

 「全体性」を拒絶するもう一つの理由へと移ろう。
 その理由は形而上学的なものである。つまり、唯名論者たちによって主張されている理由である。もし個体主義を標榜する社会学者がその論理を終始一貫させたいのならば、その唯名論的立場をはっきりと説明しなくてはならない。
 この唯名論的立場は、きわめて明確なものである。私たちが集団的「実体」― 例えば、フランス、イギリス、パリ、クレルモン・フェランのサッカー・チームなど ― について語る場合、私たちはある一つの言語的操作に身を委ねることになる。このとき、私たちは、その想定された集団的実体を現実に名づけているように思われる。もしそうであるならば、私たちは現実的な全体性について語ることを受け入れなくてはならない。ところが、実際には、私たちは何もそのようなものを名づけてはいないのである。それは一つの語り方に過ぎない。一見すると、ある都市や国やチームなどについて語るとき、私たちはある固有な現実を名指しているように見えるが、実のところは、それらの「実体」を構成している諸個体を新たな仕方で名指しているに過ぎないのである。つまり、そのような名指しによって私たちの存在論がそれだけ豊かにされたのではなく、個体の集合を参照する仕方がそれだけ増えただけのことなのである。これが唯名論的立場である。
 このような徹底した唯名論的立場は、しかし、社会学者たち(には限らないが)にとって必ずしも容易に受け入れられるところではない。例えば、「ヨーロッパ」を一つの全体性として考えることを彼らが躊躇ないし拒否するのは、政治的・倫理的に、個々の国家の自律性や価値の複数性を擁護するからであり、論理的に唯名論を主張するためではない。
 確かに、そこが論点だと人々は考えることが多い。ある「実体」を持ち出すことで、人々を黙らせたり、叱責したり、抑圧したりすることができるのか(日本でも近頃横行していますね)。例えば、「国民」という概念は危険なものでありうる。そのことは、歴史を振り返ればいたるところにその例が見出だせるだろう。
 しかし、哲学的に唯名論の立場について論ずるとき、そのような危険性が問題なのではない。そこで問題になるのは、なぜ「全体」について語ることがファシズムや多数派主義に加担することになる場合があるのか、なぜ全体性は全体主義的なものになってしまうことがあるのか、ということである。
 これらの問題をよく理解するためには、次のように事態を区別しなくてはならない。私たちは、全体論者(holiste)でありかつ反全体主義者でありうる。逆に言うと、私たちは、個体主義者でありかつ全体主義者でありうる。例えば、ルイ・デュモンによるヒトラーの分析にそれをよく見て取ることができる。デュモンによれば、ナチズムは、社会ダーウィニズムが激化した一例である。つまり、社会を闘争状態にある諸個人に還元し、具体的な人間的全体性として「人種」という自然主義的概念以外を排除したところにナチズムは成り立っているのである。
 方法的個体主義者にとっての理論的困難は、自分が解体したいと思い、実際排除したと信じていた社会的全体性を、別の形で己の理論の中に再導入しなくてはならないことである。
 例えば、「国民主権」を例に取ってみよう。この概念を受け入れないかぎり、民主主義は成り立たない。そして、民主主義とは、多数派によって支持された政府のことであると言うとき、なぜ多数派が少数派に対して権威を持つのかを説明しなくてはならない。ところが、少数の声に対立する多数の声に、ただそれが多数であるからという理由でだけで、権威を与える理由はない。実際、多くの分野・領域において、私が承認しない意見を多数の人が支持しているから、その多数の人たちが正しくて、私が間違っているという考え方は通らない(とデコンブ氏は言うのですが、日本のことを思うと、無邪気に「そうだ」とは言えませんね)。
 それでもなお、「多数派は正しい」、あるいは、少なくとも、「多数派は少数派より相対的に正しい」と言うことができるためには、「国民」という概念から多数派原則を引き出さなくてはならない。このとき、「私たち」「国民」は、一つの権威ある「全体」であり、私たちそれぞれはその全体の部分でなくてはならず、たまたま同じ意見を持っている多数の個人の単なる集合であってはならない。それゆえ、「国民」という集団的概念は、民主主義のために不可欠なのだ。
 したがって、「集合的個体」「全体性」などという概念は、民主主義社会にとって危険だから、追い払え、追い払うことができれば、それで問題解決、とは行かないのである。社会的なものを考えるとき、政治的問題以前に形而上学的問題がある。
 その問題とは、社会生活を記述するのに、社会的全体性は必ず考慮されなければならないのか、という問題である。