今日はシモンドンの連載をお休みする。そろそろシモンドンのテキストそのものを引用しながら理解を深めていきたいと思っているのだが、冬休みも終わり、講義の準備を優先せざるを得なくなり、最初の引用箇所の選定が今日の記事には間に合わなかったというのがその理由。
冬休み中だった先週、シモンドンについての連載のためにシモンドンの二つの主著を読みながら、他方では、それと並行して、今週の中古文学史の講義の準備のために『源氏物語』を読んでいた。
シモンドンを読むことは、十三年前の博論で、西田における「形」の自己限定論を現代哲学の問題一つとして取り上げるためにシモンドンを援用しようとしながら果たせず、それをいつかは実現したいという願望が一つの動機になっている。
『源氏物語』を読むことは、直接的には、講義の準備のためという職業的な義務がその「表向きの」理由であるが、なによりもまず、それ自体が無上の愉しみである。だから、思い立ったらいつでも繙くことができるように、小学館新編日本古典文学全集版と角川ソフィア文庫版とが仕事机に座ったまま届くところに並べてある。
両者の間に直接の関係は、もちろん、ない。が、シモンドンの個体化理論から見ると、『源氏物語』は、そのテキストの生成過程がその生成の原理そのものの生成過程でもあることにおいて、シモンドンにおける « transduction » をこの上なく見事に例示している作品だとは言えるように思う。
明日の講義で学生たちに『源氏物語』のどの箇所を紹介しようかといろいろ思案した挙句、「桐壺」の冒頭や「若紫」の中の光源氏が紫の上を見つけた場面など、定番的な箇所は型通り読ませるとして、それとは別に、「御法」から、病篤く己の最期が間近いことを自覚している紫の上が孫の匂宮を自室にそっと呼び寄せ、最後の別れの言葉を交わす場面を撰んだ。ここには普遍的な人間感情が深い感動をもたらす仕方で表現されていると思うからである。