内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思想理解の方法としての「神経分布」(« innervation »)― ジャン=ミッシェル・パルミエ『ヴァルター・ベンヤミン ある理論の行路』に触発されて

2017-05-22 13:48:35 | 哲学

 ヴァルター・ベンヤミンは、その主要な著作の邦訳がここ数十年かなりの頻度で繰り返し出版されていることから見ても、現在でも日本で様々な分野から関心を寄せられている人気のある思想家・批評家の一人のようですね。
 哲学・文学・芸術・演劇・歴史・政治・言語論・都市論等、きわめて多岐に渡るその煌めくように魅力的で刺激的な諸論考は、フランスでも、それら様々な分野に関心を持つ人たちによってよく読まれているようです。二十世紀前半のユダヤ系ドイツ人知識人の悲劇を象徴する一人であること、プルーストやボードレールの独訳者であること、一時期パリで暮らしていたこと、その著作の一部が本人自身によってフランス語で書かれたことなどから、フランスでは特別な関心を持たれているということもあるのかも知れません。
 ただ、その考察対象がとにかく極めて広範囲に渡り、文章には難解なところもあり、同じテキストとして扱いかねるほど内容が異なる複数のヴァージョンが残されている同名の論考もあったりして、ベンヤミンの思想の全体を見通すのは容易ではないことはフランスでもしばしば問題されていることです。
 私自身、ベンヤミンのことは日本にいるときからずっと気にはなっていて、今も主要な著作は仏語版ですべて持ってはいますが、実のところ、ときどきその著作のいくつかを覗き読みするだけで、正直に申し上げますと、その著作を手に取る度になんとなく苦手意識が働いて、これまで真剣に読もうとしたことはありませんでした。
ところが、つい先日、エンリコ・マラト『ダンテ』を発注するときに、Les Belles Lettres 社のサイトでふと目に止まった Jean-Michel Palmier, Walter Benjamin. Un itinéraie théorique, édition établie, annotée et présentée par Florent Perrier, 2010 も一緒に注文しちゃったんですね(まんまと出版社の罠に掛かった、と言うべきでしょうか?)。
 著者のジャン=ミッシェル・パルミエ(1944-1998)は、その膨大なベンヤミン研究を集大成しつつあった最中、その完成を見ずに惜しくも急逝されました。その没後、千頁を超える原稿からなる未完の大著は、 Klincksieck 社から Walter Benjamin. Le chiffonier, l’Ange et le Peitit Bossu というタイトルで2006年に刊行されました。私が購入した上掲の Les Belles lettres 社版は、その第一部の伝記的部分だけを切り離して編者のペリエがそれに詳細な注と文献表を加えた一書です。第一部だけとはいっても、索引も含めて五百頁を超える大著です。
 ちょっと独り言を挟みますとね、こういった量的に圧倒的な仕事を目の前にする度に、「学問って、体力勝負なんだよなぁ。やっぱ、欧米人にはかなわねえよなぁ」と、それでなくても小柄で貧相なアジア人である私は、情けなくもふ~っと深い溜息が出てしまいます。とはいえ、力量の差をただ体力のせいにして、自分の浅学菲才を弁護しようというつもりは毛頭ありませんよ。
 さてさて、えらく前置きが長くなってしましたが、なぜ本書を拙ブログの記事で取り上げたかというと、それは以下の理由によります。
 本書の巻頭に編者ペリエによる « Innervé d’éclats, un chemin Walter Benjamin » と題された、著者パルミエのベンヤミン研究への頌歌ともなっている序文が置かれているのですが、このタイトルにも、そしてその十頁ほどの序文の中にも二度出てくる « innerver » という動詞にこの序文の中で与えられている意味に、思想史の方法論という観点から、ちょっとハッとさせられたのです。
 明日の記事では、もともとは1820年代半ばに生理学や解剖学の分野で「神経が(有機体のある部位に)分布する」という意味の専門用語として使われ始めたこの動詞を考察の出発点に置き、ペリエの序文の一節を手掛かりとして、思想史の方法論について若干の私見を述べてみたいと思います。