内的自己対話-川の畔のささめごと

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インド仏教の空思想が逢着したアポリア ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その三)

2019-10-14 03:44:10 | 哲学

 空思想は、インド型唯名論の典型である。神としての基体の存在を認めず、属性としての現象世界と基体との区別も認めず、この現象世界も存在しないと考える。このような空の思想がインド仏教史の中でどのような位置を占めるのか。『空の思想史』第3章「インド仏教の空思想」は、この問いに答えるべく、インド仏教の歴史を概観する。
 空の思想は、言葉とその対象が正確に呼応するという考え方に対して根本的な懐疑をいだいた。しかし、言葉と空との関係は、あるいは言葉の対象と空との関係は、インド大乗仏教において常に一定というわけではなかった。
 言葉とその対象との非対応、あるいは言葉の対象の非実在性をもっとも先鋭的な仕方で指摘したのが中観派の祖の龍樹である。中観派の龍樹以降の思想的展開、それにやや遅れて登場した唯識派の展開、両者の差異については、とても簡単には要約できないので、ここにはインド仏教が空思想の展開の果てに逢着した問題だけを書き留めておく。

仏教は絶対的な神あるいは宇宙の根本原理といったものの存在を認めない。われわれが日常用いる言葉も、それがいかに精緻で整合的なものであろうとも、不断の否定作業に裏打ちされた空性を如実に表現できない、というのが空思想の根本である。しかし、その空性を求める修行者たちが住む世界は言葉あるいは論理の世界であるというように、大乗仏教徒たちもその長い歴史の中で認めざるを得なかった。つまり、時代が下るにつれて大乗仏教徒たちは、「すべてのものが空である」とのみ主張することは許されないことを知ったのである。ここで大乗仏教徒たちは大きな問題につきあたった。つまり、「すべてのものが空である」というのみでは、自分たちの住む場である世界の問題が何ら解決しないことを悟ったのだ。したがって、言葉とその対象である世界の構造を説明し、その上でそれらが「空である」ことを証明せねばならなかったのである。