内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(四)― 情緒が心のうちにあるのではなく、心が情緒のうちにある

2020-09-24 23:59:59 | 哲学

 情緒は心の内にしまっておけるようなものではない。独り心の内にしまっておけるような心情や感情は情緒ではない。情緒は一人一人の人の心より広い。その心の内にも外にも広がっている。いや、そもそも、このように心の内と外を最初から分けて考えるという悪癖から解放されないかぎり、情緒がわかるようにはならないだろう。情緒が身に沁むということもないだろう。情緒の中に心があるのであって、その逆ではない。情緒があるから心と心が繋がる。情緒は心と心とが繋がる可能性の条件である。
 森田真生が『数学する身体』(新潮社 2015年、新潮文庫 2018年)で言っているように、「わかる」という経験は、「脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する」。「「自分の」という限定を消すことこそが、本当に何かを「わかる」ための条件ですらある」。こう述べた直後に、「わかる」という経験の本来の深さを直截に示す例として、岡潔がしばしば挙げている「他の悲しみがわかる」という経験に言及している。『日本のこころ』(講談社文庫 1971年)収録の「情緒」と題された文章から該当箇所を引用しよう。

たとえば他の悲しみだが、これが本当にわかったら、自分も悲しくなるというのでなければいけない。一口に悲しみといっても、それにはいろいろな色どりのものがある。それがわかるためには、自分も悲しくならなければ駄目である。他の悲しみを理解した程度で同情的行為をすると、かえってその人を怒らせてしまうことが多い。軽蔑されたように感じるのである。
 これに反して、他の悲しみを自分の悲しみとするというわかり方でわかると、単にそういう人がいるということを知っただけで、その人には慰めともなれば、励ましともなる。このわかり方を道元禅師は「体取」と言っている。ある一系のものをすべて体取することを、「体取」すると言うのである。
 理解は自他対立的にわかるのであるが、体取は自分がそのものとなることによって、そのものがわかるのである。