内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

環境美学、あるいは技術的存在の美的顕現

2022-10-11 17:53:57 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した論文「近代日本最初の「建築評論家」黒田鵬心の建築観」(藤岡洋保・黒岩卓、日本建築学会計画系論文報告集、第409号、1990年3月)に、「彼の建築観の中で当時の建築界にあって特異といえるのは、都市美という観点から建築を見る、という点である」との指摘がある。
 実際、大正期においてきわめて先駆的な観点であったが、今日においてもなお、単に出来上がった一群の建物やそれらによって形成される景観の鑑賞という受動的な観方を越えて、都市計画の一つの基準として〈美〉を導入することがどこまで現実に実践されているかと問えば、都市美が十分に考慮されているとは言えず、いまだにその指摘には傾聴に値するものがあると言えるだろう。
 例えば、佐々木健一の『美学への招待』増補版、中公新書、2022年には次のような指摘がある。

美学は都市景観に注目してきませんでした。個としての藝術家の作品ではなく、鑑賞の対象となるような独立した存在ではないからでしょう。建築美学は、傑出した建築家の作品を考察の対象とします。その場合、その作品としての建造物は、コンテクストとなる周囲の空間から切り離されます。周囲の建造物は、この意識にとって邪魔者です。しかし、都市景観を考えることは、この全体を考えることです。さらに、それを環境として見るということは、鑑賞される景観として捉えるのとは別の要求をはらんでいます。環境とはそこで人びとが生きているということを根底に置いた概念です。都市を、視覚対象として見るよりは、生活のための空間として理解することが、環境美学には求められます。そして、当然、このような環境美学は、対象を取り出してその外観を評価する、という姿勢を捨てることが必要になります。

 祖父は昭和に入ると建築批評や建築評論から遠ざかり、日仏藝術交流に尽力するようになり、独自の建築美学をその後展開することはなかったし、ましてや今日の環境美学に繋がるような視点を意識して準備することはなかった。
 しかし、単に芸術作品と見なされうる建築物の個別的な批評の枠は超え出ていこうとする論点を提示してはいた。例えば、所沢飛行船格納庫について、「これなどは所謂実用的建築を美的に取り扱つて成功したもので、余は建築に於ける美と実用との一致を実現した極めていい実例だと信ずる」(上掲論文より引用)と述べている。
 近代技術が実用を目的として産出した建築物(技術的対象)を美的な対象としてとして捉える視点は、シモンドンが Du mode d’existence des objets techniques, Aubier, 2012 の中で、技術的対象が景観美を生み出す例を列挙しながら提示している「美的顕現 épiphanie esthétique」(p. 255)という概念と呼応するものがある。