内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

十八世紀ヨーロッパにおける日本観 ― ケンペル『日本誌』をめぐって(下)

2022-10-19 09:07:12 | 講義の余白から

 昨日の記事で話題にしたケンペルの『日本誌』をめぐって、二点疑問が残っている。
 一点目は、カントが読んだ『日本誌』は何語版だったのか、ということである。『永遠平和のために』が出版されたのは1795年であるから、その十数年前に刊行されているドイツ語版を読んだことも十分ありうることだが、仏語に堪能であったカントがすでに広く出回っていた仏訳をとうの昔に読んでいたとも考えられる。カントは『日本誌』の日本観に対するドームの批判的な見解を知っていたのであろうか。知っていたとすれば、それを知った上でなお、日本の鎖国政策に対して肯定的な見解を示したのであろうか。それは、鎖国を選択した当時の東アジアの時代状況における地政学的選択としては、という条件付きでのことなのであろうか。『永遠平和のために』の中の日本への言及はほんのわずかなので、カントの日本観についてこれ以上知る手がかりが今の私にはない。
 二点目は、志筑忠雄がオランダ語版から訳したとき、ドームの鎖国批判論を耳にしていたのであろうか、ということである。荒野泰典は、『「鎖国」を見直す』の中で、志筑の『鎖国論』翻訳動機を彼の同時代の日本の状況についての危機意識にあるとしている。しかし、ケンペルの「鎖国肯定論」(荒野自身の言葉)からだけではこの危機意識は出て来ない。ケンペルの鎖国論に対して、ドームは、日本国内産業の漸次的だが不可避の衰退とそれに伴う国民の貧困化を指摘しており、それゆえ、「開国」が日本にとっても諸外国にとっても喫緊の重要課題であると結論づけている。もし、近い将来の日本の国力の衰退、国民の貧困化、さらには西欧列強による植民地化への危機意識が『鎖国論』翻訳の動機になっていたとすれば、ドームのような鎖国否定論そのものかそれに類する世界認識を志筑はどこから得たのであろうか。
 荒野は、志筑の翻訳動機について、ヨーロッパにおいて「「鎖国」に対する評価がマイナスになっている、ということを国民に知らせようとしたのだと私は思うのです。志筑は、おそらく、日本がこのままの状態に留まっていれば、ヨーロッパはいずれこの体制を否定して、もう少し自由な貿易をさせろと要求してくるに違いないということまで見越していた ―― 当時としてはほとんど唯一の人だった ―― のでしょう。それでこの翻訳をしたのだと私は思います」と私見を述べている。
 しかし、どうしてケンペルの「鎖国肯定論」が日本に現在迫りつつある危機に対する警鐘になりうるのだろうか。ケンペルがその目で見た元禄時代の国内の繁栄と安定から一世紀を経て、一方で日本国内の経済危機と社会の不安定化を目の当たりにしつつあった志筑は、他方で同時代のヨーロッパの情勢の変化も敏感に察知し、「このままでは日本は危ない」との認識に至ったのだろうか。そして、その認識が『鎖国論』翻訳へと彼を向かわせたのだとすれば、「現在の日本は、もはやケンペルが見た日本ではない。開国へ向けて、日本は変わらなくてはならない」ということを国民に知らせるには、『鎖国論』によって過去の日本と現在の日本とを対比させることが必要だと考えたのだろうか。