内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ホラティウスからモンテーニュへ

2022-11-01 23:59:59 | 哲学

 ホラティウスと言えば、モンテーニュの『エセー』の中で、ウェルギリウス、オウィディウス、ルクレティウスらと並んで最も頻繁に引用される詩人の一人だ。
 例えば、第一巻第一九章「哲学することは、死に方を学ぶこと」には、『カルミナ』から次の一節が引かれている(以下、引用はすべて白水社版『エセー』宮川志朗訳から)。

だれもが同じところに押しやられて、全員の運命のつぼが振られ、遅かれ早かれくじの結果が出て、われわれは永遠の破滅へと向かう小舟に乗せられるのだ。

 これは死の不可避性がテーマとなっている文脈での引用だ。同じ章の少し先には同じく『カルミナ』からこんな引用もある。

もちろん、それは逃げる兵士を追いかけるし、戦争がいやな若者の足元も、おびえる背中も容赦しない。

 その直後に、モンテーニュは、「どんな頑丈なよろいだって、あなたを守ってはくれないのだ。《いくら用心深く、鉄や青銅で身を固めても、死は、そうやって守られた首を引き抜いてしまう》(プロペルティウス『詩集』三の一八の二五-二六)のだから、毅然として死を受けとめて、これと戦うことを学ぼうではないか」と読者に呼びかける。そのための方法について具体的に述べた後にまたホラティウスを引用する。今度は『書簡詩集』からである。

明けゆくその日が、おまえにとっては最後の日だと思え。そうすれば、思いがけぬ時間が訪れて、感謝することになる。

 この引用に続けてモンテーニュは言う。

どこで死が待ちかまえているのか、定かではないのだから、こちらが、いたるところで待ち受けよう。死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない。死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。いのちを失うことが不幸ではないのだと、しっかり理解した者にとって、生きることに、なんの不幸もない。死を学ぶことで、われわれはあらゆる隷属や束縛から解放されるのである。