内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ゲームを必要としないほど、現実がゲームな私のうんざりする日常 ― 引き際を誤らないようにしないと

2022-11-23 23:59:59 | 雑感

 ヴィデオゲームもネットゲームもまったくやったことがないので、それこそ無数にあるそれらのゲームについて、いかなる評価をする資格も私にはありません。
 やってみたいと思ったこともありません。私にとってはもう完全に異次元の世界なのです。それらに熱中している人たち、習熟している人たち、「名人」と呼ばれる人たちに、正直、何の関心もありません。
 それは、しかし、それらの人たちを蔑んでいるからではありません。そもそもゲームそのものを知らないのだから、何とも言いようがないだけのことです。
 授業で学生たちに日本語での自由発表をさせると、毎年必ずそれらのゲームの一つを取り上げる学生が数人います。彼らのお陰で、ゲームについて若干の知識を得ることができています。それでも、自分でやってみたいとはつゆほども思いません。それは、それらの発表がつまらなかったからではありません。彼らが熱をこめて語れば語るほど、私が引いてしまうだけのことです。
 それら無数のゲームの中には私の気に入るものもあるのかも知れません。それでも、試してみようという気になれません。それは私が推理小説には絶対に手を出さない理由とほぼ同じです。「はまったら最後、抜け出せない」という恐怖がブレーキになっているのです。
 「先生、それはほんとうにもったいないことです。日本人の優れた作者たちによって作成されたゲームの世界は、こんなにも豊かで、ファンタジーに富んでいて、展開にワクワクさせられます。これはもう世界遺産と言ってもいいくらいです」、と学生たちは興奮気味に私に言うかもしれません。
 それでも私は無関心なままだと思います。繰り返しになりますが、それは「ふん、つまらん」とか、「へっ、くだらねぇ」とか思っているからではありません。「もう、ちょっと、無理」ってところですかねぇ。
 彼らの話を聴けば聴くほど、きっとすごく面白いのだろうなぁ、と羨望の念さえ覚えます。それでも、やることはありません。そもそも試してみる時間がないし。無理してそれを捻り出そうとも思いません。他のことで手一杯なのです。
 もう引き際なのでしょうね。ゲームにかぎらず、もうちょっと無理かも。そんな感じです。