内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「憂いがあって人が救えようか」―『荘子』人間世篇より

2024-09-19 22:41:13 | 読游摘録

  文章を書くのにPCに頼るようになってもうずいぶん時が経つ。少なく見積もっても三十年は優に超えている。このブログの記事からしてもっぱらPCに打ち込むばかり。日常生活の中で手書きすることは稀になり、教室で板書することもほとんどなくなった。
 結果、漢字が書けなくなる。ふと思いついたことを雑記帖に書きつけようとして、はたと手の動きが止まってしまう。小学校で間違いなく叩き込まれたはずの漢字さえ怪しくなっている。さすがにこれはまずい、と思う。
 で、気に入った文章をときどき書写している。量的には一回四百字程度が上限。一文字一文字、ゆっくりと丁寧に慈しむように書く。A4の罫線もないまっさらの白紙に書くときは、書写する文章が一頁に収まるように文字の大きさ・行間等に気を配る。四百字詰め原稿用紙の一枡一枡を埋めていくこともある。どちらも楽しいし、心が静まる。
 気に入った文章はフランス語でも書写する。
 今日、机まわりの書類を整理していたら、昨年度のある授業の試験問題用紙の裏になにやらフランス語の文章が書きつけてある。迂闊なことに出典が記されていない。はて、これはどこで見かけた文章なのであろうか。
 こういうときはネット上の検索エンジンが威力を発揮してくれる。書写した文章の一部を入力したらすぐに出典がわかった。Jean François Billeter, Études sur Tchouanng-Tseu, Éditions Allia, 2004 に引用されている『荘子』人間世篇のはじめのほうの一節だった。
 この本を買ったのは今年の四月で、書写したときから五ヶ月しか経っていないのに、もう出典がわからなくなっているし、なぜ書写したのかも覚えていない。ちょっと、いや、かなり、情けない。
 記憶力減退は如何ともしがたい。それを嘆いてもはじまらない。書写した文章を今一度ここに掲載して心に銘記しよう。

L’action doit avoir un but précis, sinon elle se divise, elle se brouille, elle tourne mal et cause à la fin des dégâts irréparables. Les sages d’autrefois gardaient en eux le ressort de l’action, ils ne le laissaient pas à d’autres. Tant que tu n’es pas sûr de le détenir, ne te mêles pas de mettre fin aux méfaits d’un tyran ! (p. 77-78)

 ビルテールからの批判を踏まえて改訳された Jean Levi 訳 の『荘子』Les Œuvres de Maître Tchouang, Éditions de l’encyclopédie des nuisances, 2010 の同箇所も引いておこう。

Il ne faut jamais avoir trop d’idées dans l’action. Qui a trop d’idées a l’esprit confus, qui a l’esprit confus broie du noir, qui broie du noir n’arrive jamais à rien. L’homme supérieur de jadis se servait de ses propres ressources avant de recourir à celles des autres. Mais quand on n’est même pas assuré de ses propres capacités, comment pourrait-on encore se mêler d’intervenir là où sévit un fou furieux ! (p. 34)

 参考までに、ちくま学芸文庫版『荘子 内篇』の福永光司/興禅宏訳も引いておく。

いったい道というものは雑多さを嫌う。雑多であれば多極に分裂し、多極に分裂すればごたごたし、ごたごたすれば憂いが増える。憂いがあって人が救えようか。いにしえの至人は、まず自分自身をしっかりとさせてから、人もしっかりさせようとした。自分自身に拠るべき道の定まらない者が、どうして暴君の所行にかまっていられよう。(118頁)