内的自己対話-川の畔のささめごと

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「居場所」とは「「何もせずに」居ることができる場所であり、一人で過ごしていたとしても孤独ではない場所」―村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』(青土社)より

2024-09-25 18:38:50 | 読游摘録

 「居場所」という言葉自体は明治期から使われているが、『新明解国語辞典』(第八版)に用例として挙げられている「自分の家なのに居場所が無い」といった使い方での「身を落ち着けて居られる場所」という意味での用法は比較的最近広まったようだ。
 村上靖彦氏の『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』(青土社、2021年)によると、おそらく2000年頃から頻繁に耳にするようになった言葉とのことだ。そしてその背景には二つの文脈があるという。
 「一つは困難の文脈だ。高度経済成長から新自由主義の進展にともなって地域の共同体が壊れていき、競争社会が浸透してさまざまな排除が正当化されたため、とりわけ弱い立場に置かれた人の「場」が失われ、「居場所」をあえて人工的に作り出す必要が生じたのだろう。」(66頁)
 「もう一つの文脈は自発的なものである。浦河べてるの家や、私が関わっている大阪市西成区のこどもの里は、一九七〇年代後半に精神障害者や子どものニーズに応える形で自然発生的に生まれた居場所である。」(同頁)
 このような戦後日本社会の変化が背景にあるとしても、居場所そのものは、村上氏も言うように、「人間にとって欠くべからざる環境」なのだろう。
 そうであるからこそ「居場所」について授業で話すと学生たちが強い関心を示すのだと思う。『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』のなかの「居場所」についての一節は9月14日の記事で触れたが、この一節は学部の「日本思想史」の授業の中でも修士の演習の中でも紹介した。どちらでも「受け」がよかったので、一昨日月曜日の授業と今日の修士の演習では、『交わらないリズム』から次の一節を紹介した。

 居場所とは人が自由に「来る」ことができ、「居る」ことができ、「去る」こともできる場所である。
 さらに言うと、「何もせずに」居ることができる場所であり、一人で過ごしていたとしても孤独ではない場所である。なぜ一人で居ても孤独ではないかというと、誰かがそこでその人を気にかけ見守り、放っておいてくれるという感覚があるからである。逆説的だが、居場所とは人と出会える場所であり、かつ一人にもなれる場所のことだ。(67‐68頁)

 村上氏は居場所のもう一つの特徴を次のように説明する。

 無為に加えて居場所にはもう一つの特徴がある。それは自由な遊びが生み出される場所であるということだ。[…]遊びは、他に目的を持たない行為だ。[…]目的を持たないゆえに、居場所は戯れ・遊びの場となる。遊びは社会のなかに目的を持たない。遊び自体が遊びの目的だ。居場所が遊びの場になるのは、居場所の本質に無為があり、無為が無目的の遊びを可能にするゆえだろう。(69頁)

 この一節を紹介したときに学生たちが示した関心の強さは、ノートを取る手の動きの速さ、スクリーンに映し出された文章あるいは説明する私自身に向けられた眼差しの真剣さからよく伝わってきた。
 村上氏の平易な文体は、予習なしに読んでも内容がわかるという喜びも学生たちに与えている。さらには、テーマそのものに関心があるからもっと読んでみたいと学習意欲も高める。授業で使わせていただく身としては大変ありがたい教材である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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