内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(八)

2014-02-18 02:06:00 | 哲学

 〈花〉、それはある時ある所に咲く時分の花の影に本来的に見えないものとして自らの姿を隠すものであると同時に、その時その所に咲く花をそのように咲かせるところのものである。永遠の現在として生きられた〈今〉において舞台の上に無限に多様な形姿を立ち現れさせながら、〈花〉は〈現れること〉そのこととして、したがって本来的に見えないものとしてそこに現成する。
 世阿弥が「万に珍しき理」と言うとき、この「珍しき」こそ〈花〉にほかならず、本来的に実体的自己同一化を逃れるもののことであり、しかしまたあらゆる立ち現れにおいて自らにおいて直接経験されるところのものでもある。〈花〉の美しさとは、不壊の美しさであり、それ自体は表象され得ないものであり、役者の所作が現実化する自己形成的な生きた形姿において舞台上に感じられるものである。しかもそれは役者と観客との〈間〉においてのことである。
 世阿弥の〈花〉は、隠されたものと顕わにされたものとの間の矛盾的自己同一とでも呼びたくなるようなものである。隠されたものは、現象界に見えるものとして顕にされないかぎりにおいて、本来的に「心から心へ」と伝わる。それは、したがって、表現へと強いられるものではありえず、儚きものでしかありえないあらゆる立ち現れの手前あるいは彼方に保たれなくてはならない。
 これが舞台の〈花〉である。その〈花〉とともに見えないものの場所がそこに開かれる。その場所こそ、まったき新鮮さとともに生きた形が創造される舞台である。そして、そこにおいて私たちは諸現象の外的現われの彼方へと導かれ、その諸現象の内的本質に触れる。その内的本質こそ〈生命〉にほかならない。

 今回の『風姿花伝』の〈花〉をめぐる考察はこれで締め括りとする。また何年かして再読する機会が与えられることを願っている。











『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(七)

2014-02-17 00:00:10 | 哲学

 それでは、「花」はどこにどのように咲くのか。

ただ、煩はしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年来の稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中に当てて分ち覚えて、能を尽し、工夫を究めてのち、この花の失せぬ所をば知るべし。この、物数を究むる心、すなわち花の種なるべし。花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種は態なるべし。

 同箇所について参照した現代語訳の中で一番説明的な訳になっている竹本幹夫訳(角川ソフィア文庫版)を引く。

ただし、花を知るということを、面倒なことと思い込んではならない。まずは、七歳以後の「年来稽古条々」で説いた教えの数々、「物学条々」の各条を、何度も心の中で納得のいくまで検討し、あらゆる能を演じ、芸の工夫を極めた後に、芸の魅力の失せぬ境地を理解することができよう。このようにあらゆる演目の数々を稽古し尽くすことが、花の種となるのである。すなわち、花を知ろうと思うならば、まずその種のなんたるかを認識すべきである。花は心の工夫によって咲き、種とはその工夫を可能にする稽古の数々なのである。

 稽古は具体的な所作の修練という意味で目に見えるものだが、それを「種」として咲く花はそれと同じ意味においては目に見えるものではない。「花は心」と世阿弥が言うとき、しかし、それは「花」が「心」と呼ばれる内面世界にのみ咲くものだと言おうとしているのでもないであろう。そのように「心」を人間精神の内面に閉じ込めてしまうのは、近代哲学以降の話で、ましてやそれを明治以降に導入したにすぎない日本における中世が問題であるここでは、まったくの的外れの誹りを免れがたいであろう。
 「花」は「心より心に伝ふる花」(奥義云)であり、言語では説明しきれるものではないと世阿弥は言う。したがって、それは目に見える「型」のようなものではないことは明らかだ。とはいえ、師の心中を察して身に付ける「こつ」のようなものでももちろんない。それは稽古を尽くすことを通じてのみそれとして伝承されうる目に見えないものであるが、それがあってはじめて舞台上の芸がそれとして成立するような何かである。それは体得したからといって人に見せるようなものでもなく、誤って見せようとすれば、それはもやは「花」でさえなくなってしまう。

秘すれば花、秘せねば花なるべからず。











『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(六)

2014-02-16 06:36:17 | 哲学

これ、人々心々の花なり。いづれを真にせんや。ただ時に用ゆるをもて、花と知るべし。

 これが結論となっている「花伝第七別紙口伝」終わりの方の一節全体を読めば明らかなことは、それ自体においてつねに自己同一的なただ一つの「理想的な花」などというものは存在しないということである。世阿弥が「花」と呼ぶものは、自らが置かれた場所に応じて無限に多様な形において自らを表現するところのものなのである。それは時間性の彼方に実体として自己同一的にとどまるものとは根本的に対立する。
 私が一昨日の記事で、『風姿花伝』の本文には見出されない「永遠の現在における花」という第三の〈花〉を世阿弥能楽論解釈のために導入したのは、永遠の現在として生きられた各瞬間においてある特定の一つの形を自らに与えることができる無限の受容可能性をそれとして世阿弥のテキストから浮かび上がらせようとしてのことなのである。このような「珍しき理」の観点から見るとき、失われることなき「真の花」とその季節にある限られらた間だけ咲く「時分の花」との間に世阿弥が立てた区別は、舞台上にある形姿において〈現れるもの〉と〈現れること〉そのこと自体との存在論的差異をよりよく理解させてくれる。この両者がある一つの現実として「永遠の現在の花」において不二不可分不可同なものして舞台に現成するとき、それを世阿弥は端的に「花」と呼ぶのである。











『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(五)

2014-02-15 00:05:00 | 哲学

 昨日の記事の終わりに引用した『風姿花伝』「花伝第七別紙口伝」の一節をもう一度引く。

しかれば、芸能の位上がれば、過ぎし風体をし捨てし捨て忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる枝の花のごとし。種あれば、年々時々の頃になどか逢はざらん。ただ、かへすがへす初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き為手をば、「早く上がりたる」「劫入りたる」など褒め、年寄りたるをば、「若やぎたる」など批判するなり。これ、珍しき理ならずや。その上に、年々去来の品々を一身当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや。

 同箇所の小西甚一博士の現代語訳も併せて引いておく。

だから、芸の位が上るにつれて、これまでやってきた芸態を忘れてゆくのは、まったく「花の種」を失うことだといってよい。その時期だけの花を咲かせるにすぎず、花の種を失うわけだから、まるで折り取った花の枝と同様である。種さえあれば、毎年その頃には、かならず花が咲く。どこまでも初心を忘れてはならない。それで、いつもよく聞く批評にも、若い役者をほめるのに「早く芸が大人になった」「老練な芸だ」とか言い、老年の演者をほめては「若わかしい芸だ」など言うのである。これは「目新しさ」というものが花となるゆえでなくて何であろう。十体をいろいろ工夫しかえれば、百種にもなるであろう。その上に、年齢的な芸風の変化まですっかり身につけていたならば、どんなにおびただしい種類の花となることであろうか。

 その時々に咲く花がそのように咲いたという単なる事実と、そのような多様でありかつ儚い花をそれとして演じ分けられる芸位に達するということとはまったく別の事柄なのである。ある役者が様々に異なった芸態を同時に身につけているということは、同時に異なった花を咲かせることができるということではなく、初心の頃から様々な芸態において自らを表現しつづけてきた何かがその役者において生きつづけているということだろう。世阿弥が「花とて、別にはなきものなり」と言うとき、絶えず変化生成のうちにあるものが問題なのでもなく、「理想的な花」と現象界においてある時ある所に事実咲いた花のうちの一つとの間に見出されうるとされるような何らかの類似が問題なのでもなく、自然の内的本質の、その都度儚くはあるが真正な顕現、より具体的にはその都度の舞台上での真正な現成のことにほかならない。












『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(四)

2014-02-14 05:15:00 | 哲学

 昨日の記事で最後に引用した「花伝第七別紙口伝」の一節をもう一度引く。

また云はく、「十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。」年々去来の花とは、たとへば、十体とは物まねの品々なり。年々去来とは、幼なかりし時の粧ひ、初心の時分の態、手盛りの振舞、年寄りての風体、この時分時分の、おのれと身にありし風体を、皆、当芸に一度に持つことなり。ある時は児・若族の能かと見え、ある時は年盛りの為手かと覚え、または、いかほども臈たけて劫入りたるやうに見えて、同じ主とも見えぬやうに能をすべし。これすなわち、幼少の時より老後までの芸を一度に持つ理なり。さるほどに、「年々去り来る花」とは云へり。

 この一節で注目すべきだと私に思われるのは、もはや「真の花」と「時分の花」との区別を確立することが問題なのではなくて、稽古と実践において、そして舞台において、端的に能の〈花〉がそれとして現成する場所を明確に規定することが問題になっていることである。そこにあるのはただ一つの〈花〉であって、それを真正だとか儚いものだとか区別して限定することが問題ではもはやないのだ。なぜなら、そこにはもう「真の花」と「時分の花」との対立はないからである。この対立の消滅は、今日『風姿花伝』として知られている書の成立過程における世阿弥の能楽理論の変化あるいは深化によるという見方もできるかも知れない。『風姿花伝』最初の三篇と「花伝第七別紙口伝」との間には執筆時期に数年の隔たりがあることもこの見方を支持する根拠の一つになりうるかも知れない。
 しかし、それでもなお、『風姿花伝』全体を通じて理論的に一貫した仕方で〈花〉を理解することはできるだろうと私は考える。それは、「真の花」と「時分の花」とを前提とした上で、「永遠の現在における花」という第三の〈花〉を導入することによって可能になるというのが私の考えである。こう言えば、たちどころに、そのような解釈は成り立ち得ない、なぜなら「永遠の現在における花」などという概念の導入を許すような記述は『風姿花伝』の本文には見出し難いからである、という反論が返ってくるであろうことを予想していないわけではない。その予想される反論に対する応答を試みるにあたって、その根拠となる一節は、同じく「花伝第七別紙口伝」に見られる以下の一節である。

しかれば、芸能の位上がれば、過ぎし風体をし捨てし捨て忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる枝の花のごとし。種あれば、年々時々の頃になどか逢はざらん。ただ、かへすがへす初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き為手をば、「早く上がりたる」「劫入りたる」など褒め、年寄りたるをば、「若やぎたる」など批判するなり。これ、珍しき理ならずや。その上に、年々去来の品々を一身当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや。

 明日の記事は、この一節をもう一度読み直しながら、それについての私の解釈を述べることから始める。











『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(三)

2014-02-13 00:05:00 | 哲学

 「時分の花」は、溌剌とした若さ、持って生まれた才能、自発的な創意などが役者にあたえる魅力による。その花は、様々に異なった視覚的価値、より一般的に言えば、知覚されうる価値とともに現れる。しかし、それらの価値は一時的なものであり、儚いものである。幼少期や少年期の優美さ、初々しく魅惑的な声、青年期の輝くばかりの才気、眩いばかりの肉体美など、これらすべては遅かれ早かれ失われていく。たとえ芸は退歩しなくても、それらが失われていくことは避けがたい。「年来稽古条々」四十四五歳の項にあるように、

芸は下らねども、力なくやうやう年闌け行けば、身の花も、他目の花も、失するなり。

 それでは、「真の花」とは、どのようなものなかのか。「時分の花」に属するすべての知覚可能な魅力、花開く時があれば、その後には枯れ消えていくほかない魅力がすべて消え去ったにもかかわらず保たれうるような何かなのであろうか。もしそうであるとすれば、「真の花」は、私たちがそこで生きているところの知覚可能な形姿の世界、「年々去り来る花」の世界を超えたところに探さなくてはならないものなのであろうか。つまり、現象世界を超越するもの、絶えざる生成消滅の世界を超えてそれ自体に常に同一的である形而上学的な何ものかなのであろうか。しかし、「花伝第七別紙口伝」の次の一節を読めばわかるように、そのような仕方で現象界の「時分の花」を否定し「真の花」を観念論的に荘厳化することはできない。

そもそも花と云ふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑに、翫ぶなり。申楽も人の心に珍しきと知る所、すなわち面白き心なり。花と面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。いずれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あれば珍しきなり。能も住する所なきを、まづ花と知るべし。住せずして余の風体に移れば、珍しきなり。

 「花」であるからには、時を超えた普遍的な何かではありえない。年々、四季折節に咲く花のように、そのときそのところで咲く「花」において「真の花」は現勢的に現れるものでなくてはならない。それゆえにこそ、同じく「花伝第七別紙口伝」において、あらゆる芸を身につけたとして、その上での心得が次のように述べられているわけである。

また云はく、「十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。」年々去来の花とは、たとへば、十体とは物まねの品々なり。年々去来とは、幼なかりし時の粧ひ、初心の時分の態、手盛りの振舞、年寄りての風体、この時分時分の、おのれと身にありし風体を、皆、当芸に一度に持つことなり。ある時は児・若族の能かと見え、ある時は年盛りの為手かと覚え、または、いかほども臈たけて劫入りたるやうに見えて、同じ主とも見えぬやうに能をすべし。これすなわち、幼少の時より老後までの芸を一度に持つ理なり。さるほどに、「年々去り来る花」とは云へり。

 実年齢にはよらずに、あらゆる「時分の花」を、そのときそのところに応じて、それぞれそれとして見事に咲かせることができるとき、そのような芸位に達した役者の演技において、「真の花」は「年々去来の花」として現象界に顕現する。
 しかし、このように至高の芸位を規定した後で、世阿弥は、そのような役者は昔も今も見たことも聞いたこともない、辛うじて亡父観阿弥がそのような芸位に達した唯一無二の役者であろうかと言う。
 『風姿花伝』における世阿弥の能楽論的探究は、単に能の役者としての実践的経験や見聞から一般的帰結を引き出すことに留まるものではなく、それらについての省察を通じて、生命の本質的価値の探究の領域にまで達していたと言うことができるだろう。













『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(二)

2014-02-12 01:39:00 | 哲学

 「年来稽古条々」十二三歳の項では、とりわけ愛らしい姿で、声も美しく、しかも芸が上手な児ならば、何をやらせてもよかろうと認めた上で、その年頃の芸について、次のように注意する。

さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分の花なり。

 このあまりにも有名な一文は、能において〈花〉を知ることがこの上なく大切であり、そのための根本的な区別がどこにあるかを指し示している。この「真の花」と「時分の花」との区別への注意は、この箇所以降『風姿花伝』でたびたび繰り返される。二十四五歳の項では、才能ある若き役者が名人相手に競っても勝る時があり、それで本人も自分は俊秀だと思い込みがちだが、これはかえすがえすも当人にとって害をなすものであると注意した上で、

これも真の花にはあらず。年の盛りと、見る人の一旦の心の珍らしき花なり。

と断ずる。同じ年齢の項の終わりの方には、

されば、時分の花を真の花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。

にもかかわらず、人々は、この一時的な花を本物と混同し、それがすぐに消えてしまう花だということも知らずにいる。「初心」というのは、この時期のことなのだ。つまり、役者として独り立ちできる年齢になり、若さと才能ゆえに観客を魅了することができるまさにその時期が「初心」であり、そのときに「時分の花」と「真の花」とを区別できるかどうかにその後の役者としての生命がかかっているということである。
 では、この「真の花」あるいは「真実の花」は、誰もがめざすべき普遍的な理想型を指すのであろうか。そうではないことは、直後の一節を読むとわかる。

わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は一期失せず。位より上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。

 自分の芸位の程度を正確にわきまえているのならば、その程度の花は一生なくなるものではない。自分のほんとうの芸位よりもえらいように誤認していると、もとから有った花までも消えてしまうのである。つまり、能における「真の花」は、何かイデアのようなそれ自体で存在するような不変かつ普遍である実体ではないのだ。他方、「時分の花」も、そのようなイデア的なものに対して単に付随的で儚い一時的な現象に過ぎないのではない。その「時分の花」が咲くまさにその場所においてこそ、それと「真の花」とが区別されなくてはならないのである。
 「時分の花」を現象、「真の花」を本質と言い換えることができるのならば、世阿弥の能芸論においては、現象において本質を直観することが根本問題なのだと言うことができるだろう。ここでいう本質とは、現象に先立ってそれ自体で存在するのでもなく、諸現象から帰納的に規定される本性でもなく、その都度の現象においてそれをそのように現われさせているところのものであり、その現象においてこそ把握されるべきもののことである。その本質把握の方法の探究こそ能の稽古であり、その舞台における実現こそが能の究極の目的であるとすれば、能とは、まさに一つの現象学的実践であると言うことができるだろう。












『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(一)

2014-02-11 00:00:00 | 哲学

 『風姿花伝』における〈花〉とは何かという問題については、あるいは世阿弥の能楽論全般における〈花〉の位置づけと意味の推移については、すでに数えきれないほどの研究があり、もう論じ尽くされているとも言えるだろう。言うまでもないことだが、素人の私に学術研究として新説を打ち出そうなどという野心があるはずもなく、斬新な解釈で人を驚かそうという魂胆があるわけでももちろんない。では、なぜこのテーマを取り上げるのか。それはただ、世阿弥の芸術論をこよなく愛するひとりの素人として、曲がりなりにも自分自身でテキストと向き合い、そこから読み取ったことを記録に残しておきたいからにすぎない。
 それにしても、どのような視角からテキストに入っていこうとするのか一応決めておかないと、一つの読み筋を浮かび上がらせることさえできずに、世阿弥の幽遠な言葉の森の中で道を見失ってしまいかねないだろう。そこで、いささか無粋なやり方であることを承知のうえで、今日の記事のタイトルにもあるように、自由と形式の関係という問題の枠組みを立て、その枠組みの中で『風姿花伝』の〈花〉へと通じる途を探してみようというわけである。言い換えれば、自由と形式の関係という問題について、『風姿花伝』における〈花〉をめぐる論述からどんな思想が読み取れるか試してみようという、一つの読解の試みということである。
 その最初の手掛かりは、第一篇「年来稽古条々」の冒頭の七歳の項の中にすぐに見つかる。

この頃の能の稽古、かならずその者自然とし出すことに得たる風体あるべし。舞・働きの間、音曲もしくは怒れることなどにてもあれ、ふとし出ださん懸りを、うち任せて心のままにさせすべし。さのみに、よき・あしきとは教ふべからず。

 能の稽古を始めたばかりの子供には、自由にさせるのがよく、善し悪しを論って形式を無理に押し付けようとしてはいけないというわけである。しかし、だからといって、何でも好きにさせていいわけではない。

ただ、音曲・働き・舞などならではせさすべからず。さのみの物まねは、たとひすべくとも教ふまじきなり。

 やはり一定の制限があり、たとえその子供に能力があったとしても教えてはいけないことがある。学ぶにも順序があり、子供において生れる自然の発露を尊重しつつ、その心身を一定の方向に導こうとしていることがわかる。こうして始まった能の稽古の内容が年齢の進むにしたがって変わってゆくのも、その変化にともなって注意すべき点が変わってゆくのも至極当然なことであろう。
 しかし、「年来稽古条々」全体を自由と形式の関係という視角から見るかぎり、そこには次のような一定の思想を読み取ることができるように思われる。自由あるいは自発性はそれ自体で独立の価値をなすというよりも、それが活かされるような適切な形式を得てはじめて生きた価値たりうる。と同時に、形式もまたそれ自体で生きた価値ではありえず、時と場所に応じた自由な創意・工夫があってはじめて生きた姿形として舞台上に実現されうる。このような考えは、第五篇に相当する「奥義」には、次のように表現されている。

ことさらこの芸、その風を継ぐと云へども、自力より出づる振舞あれば、語にも及びがたし。

 「この能という芸は、先人のやりかたを継承してゆくものではあるが、自分の工夫から生まれ出るわざもあるので、言語では説き切れるものではない」(小西甚一訳)。つまり、先人たちによって確立された形式を継承することが能の基本ではあるが、その形式の継承の過程には個人の自発的な創意・工夫が様々な仕方で入り込んで来るものであり、そこにはとても言葉で説明できないような微妙な関係性があるということである。この伝統的形式の踏襲・継承と各個人の自由な創意・工夫との時に応じて無限に多様でありうる関係性が「心より心に伝ふる花」なのだと言うことができるだろう。












『風姿花伝』の〈花〉再考 ― 参照テキストについて

2014-02-10 00:07:00 | 読游摘録

 『風姿花伝』の〈花〉をめぐる哲学的考察に入る前に、この芸能論の古典を読むにあたって参照したテキスト・注釈書を挙げておきたい。それぞれの初版の出版年順に挙げる。小西甚一『世阿弥集』(一九七〇年に筑摩書房から出版された〈日本の思想〉全二十巻の中の一冊。ただ、私が持っているのはこの初版ではなく、その復刻版である『世阿弥能楽論集』(たちばな書房、二〇〇四年)である)。川瀬一馬校注『花伝書(風姿花伝)』(講談社文庫、一九七二年)。田中裕校注『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成、一九七六年)。竹本幹夫訳注『風姿花伝・三道』(角川ソフィア文庫、二〇〇九年)。さらに、訳者自身による四十五頁に及ぶ長い序説と五十七頁に渡る後注を伴った René Sieffert の仏訳 La tradition secrète du nô, Gallimard / Unesco, collection « Connaissance de l’Orient », 1960 も参照した。いずれの版からも、多くのことを学んだが、こちらの浅学非才ゆえに、よく理解できていないところも多々あろうかと思う。
 小西、川瀬両博士によるそれぞれの刊本には、長年能楽研究に心血を注いでこられた両碩学の味わい深い感懐が「序」あるいは「あとがき」に簡にして要を得た澄明な文章で表現されており、その一部をそれぞれから引いておきたい。
 まず、一九〇六年生まれの川瀬一馬博士(一九九九年没)は、世阿弥研究の第一人者として知られていた中世文学研究・書誌学の大家であるが、滋味あふれる随筆も多数書かれており、その一部は『柚子の木』『蝸牛』(いずれも中公文庫)に収められている。『風姿花伝』については、世阿弥の父観阿弥の口述であり、世阿弥はその「筆記者(編者)」とする点において、他の参考文献と異なる立場に立つ。今日の学界では、このような説に与する学者はほとんどいないのではないかと思う。父観阿弥からの教えなしに世阿弥の芸能論は成り立たなかったであろうとしても、『風姿花伝』は、その現在に伝えられている形に至るまでの複雑な経緯を考えても、やはり世阿弥の著作とみなすべきであろう。それは、例えば、『歎異抄』における唯円、『正法眼蔵随聞記』における懐奘のように、その偉大なる師の言行を伝える弟子の立場に身を置くのとは明らかに違う。それはそれとして、川瀬博士は、中学生の頃すでに謡や仕舞を習われ、早くから世阿弥の伝書に接せられ、以後半世紀以上に渡って『花伝書』に親炙されてきたことにかわりなく、上記の講談社文庫版を上梓される一九七〇年までに実に八十四回も『花伝書』を大学等で講義されている。同版の「序」に見られる次のようなさりげない一節に私は深い感動を覚えないではいられない。

講義の方も回数を重ねたので、今ではそのかみの塙保己一検校のごとく暗闇でも全本文を講義できる程になっている。花伝書の内容が自然に腹の中におさまっていて、かなりこなれた講義が口をついて出てくるような気もするのである。その上、花伝書は何回講じても、講ずる度ごとに日に新らたな感じである。私には花伝書によって自分の人間の進みを量ることができるように思われる。花伝書はそれだけの内容を持っているのである。

 小西甚一博士(一九一五-二〇〇七)は、その膨大・広範・圧倒的な学術研究で学界に屹立する存在であるばかりでなく、古文学習参考書として書かれた古典的名著『古文研究法』(洛陽社)、古語学習辞典の傑作『基本古語辞典』(大修館書店)によって高校生・大学受験生にもよく知られた不世出の碩学であることは私ごときがくだくだしく紹介するまでもないことであろう。上記二著には私自身受験生時代大変お世話になった。『俳句の世界』(講談社学術文庫)は私が度々参照する本の一つで、今も椅子から立ち上がるだけで取れる位置に並べてある。趣味として、能・狂言を舞い、俳句を詠まれた。博士をさらに日本文学研究者の中で稀有な存在にしているのは、スタンフォード大学、ハワイ大学、プリンストン大学でも長年教授・研究され、英語にも堪能であり、欧米の文学批評理論にも造詣が深いことである。
 『世阿弥能楽論集』の「あとがき」には、「本書は、本当に骨を折ったというにふさわしいほど力を入れて取り組んだ著作」だとある。その理由は以下の一節を読めばわかる。

 この世阿弥の能楽論集は、日本の宝であるとともに、世界の宝でもあると思います。それゆえわたくしは、日本文化に興味のある方には広く読んでいただきたいのです。日本文化を考えようとする方にとっては、心にかかる問題が必ずどこかに取り上げられてあるという自信もあります。

 博士の願いは、現代語訳についての次のような配慮にも表れている。

いささか大げさに言えば、世界中の読者を念頭において、読みやすく分かりやすい言葉を選んであり、日本語の読める外国の方にも通じやすい日本語を使っております。(中略)本書における現代語訳に際しても、これを英語で書くとどうなるかということをまず考えて、その後に日本語にしたのです。そういう工夫と努力が、難解というベールの彼方に置かれていた世阿弥の考えが、若い人や外国人の読者に身近に受け取られ、深く理解してもらえるよすがになれば、喜ばしい限りです。

 博士のような大碩学の驥尾に付して次のようなことを述べるのは不遜の誹りを免れ難いとは思うが、私がフランスの大学で、日本の古典を直接の対象とするわけにはいかない講義の中でも、あえて『風姿花伝』を紹介するのは、少なくとも気持ちの上では博士と同じ願いを持っているからなのである。












世阿弥『風姿花伝』の〈花〉再考 ― 自由と形式の関係を手掛かりに

2014-02-09 03:50:00 | 哲学

 昨年の8月25日の記事「自由と形式 ― 独仏間の文化的差異について ―」の中で、ドイツにおける教育が「自由から形式へ」という方向性で特徴づけられるとすれば、フランスにおける教育は「形式から自由へ」という方向性で特徴づけられ、ドイツ文化とフランス文化とがヨーロッパ文化において相補的な役割を果たしているという、ハイツ・ヴィスマンの説を紹介した。
 その翌日の記事「世阿弥の〈花〉の現象学的分析」では、この自由と形式という対概念が日本文化においてはどのような関係にあるかを見るための一例として、世阿弥の『風姿花伝』における〈花〉の概念に注目してあるシンポジウムで発表したことを話題にした。その記事の末尾に、『風姿花伝』における「花」と『花鏡』における「離見の見」とについての考察に、両テキストをじっくりと読み込んだ上で、いつかまた立ち戻りたいと書いた。それ以来そのような時間を得られないままでいる。
 どこかで自分からきっかけを作らなくてはいつまでたっても立ち戻れないことはわかっているので、今週の水曜日の学部一年生の「日本文明」の講義で、一時間だけだが、『風姿花伝』の〈花〉について話した。シンポジウムのときの発表原稿は学生たちには難しすぎる内容だったので、その一部を簡略化して、この日本文化史の中で最も美しい芸術理論の一つである『風姿花伝』の根本概念である〈花〉について、原典からの引用とフランス語訳とをパワーポイントで見せ、その中の鍵になる言葉を中心に説明していった。学生たちは予想よりはよく聴いてくれた。特に女子学生たちは『風姿花伝』の文章が与える花のイメージの美しさに関心を示していた。他方、完全に白けきっていた男子学生たちがいたことも正直に言っておく。
 この講義の準備のために『風姿花伝』と仏語の発表原稿を読みなおしたことで、この機会に『風姿花伝』における〈花〉について再考し、自分の考えをまとめておこうという気持ちが生まれてきた。それを逃すまいと、明日以降、このテーマについて何回かにわたって記事にしていく。