ティアーズ・フォー・フィアーズの2枚目のオリジナルアルバムが出たと知って、3月か4月(?)に、秋葉原の石丸電気で輸入盤を購入した。
1枚目の「虐げられてきた子供たちの反逆」という閉鎖的空間での嘆きから、この2枚目は、外への開放的な作り方がされていると、1回聴いて思った。
あくまでも、目は外へ向けて。
まだ、そのときは、「ルール・ザ・ワールド」もヒットしていなかったが。
1枚目と2枚目の間には、大きなへだたりと違いがあるのだ。
今まで、内向的であった彼らが、外へ向けて跳躍を試みた実験作なのであった。
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A面1曲目は、既にシングルカットされている「シャウト」から始まるが、その後の、この2曲目「The Working Hour」が好きになった。
たぶん、4人のバンド形態から、フリーセッションで作っていったと思われる曲だが、その自由な音の流れは、1枚目には無かった作り方の曲である。
浪人の頃、よく聴いたなあ。
1985年4月3日のノートには、こういうコトバが引用してある。
「芸人なり、音楽家が自分の表現を突き詰めるのならば、政治的な、例えば”難民救済”といったものから離れていくことが本来の姿である。」(ねじめ正一)
当時、やたらに「難民救済」やら「戦争反対」やらを、音楽家が言い出した頃だった。
それに反して、ノートには続いてこんなことが書いてある。
「”さあ、みんな立ち上がるんだ”ではなく、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは、”俺たちは死ぬのは嫌だよ”という本人の視点である。
集団意識と個人レベルでの意識。」
続いて、坂本龍一が言っていたような「反戦ではなく非戦」というようなことが、ノートには書きなぐっていた。
東西冷戦下において、戦争への不安が音楽やアート、サブ・カルチャーの世界にも出ていた頃だった。
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今回は、デヴィッド・ボウイとパット・メセニーによる「This Is Not America」のプロモーション・ヴィデオ。
当時、シングル盤を購入して、よく聴いていた好きな曲である。
これは「ファルコン&スノーマン」という映画のテーマ曲だった。
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さて、2009年の今に戻ると、4月4日。
2008年度の終わりと2009年度の始まりが入り混じり、仕事場の周辺も、めまぐるしく入れ替わった、心労の多い1週間だった。
昨夜は、金曜日帰ると、20:30。
コタツに入って、お茶をずずずっと飲み、SHOP99で買った干し芋を食べていると、灯りもパソコンも付けっ放しで眠っていた。
土曜日、朝、起きると10:30だった。
そこそこ疲れは取れた気もするが、暗い気分は変わらない。
ラジオを着けると永六輔さんと外山恵理ちゃんのTBS「土曜ワイドラジオTOKYO」。
TBSラジオ「ストリーム」が終了して、1週間。
2ちゃんねるで、その後のリスナーの反応を見ていた。
北朝鮮のミサイルが、発射されるか否かということを、昼前後、気にしながら、NHKを見ていた。
MZ師にTELすると「下手に打ち落とすと、戦争が始まる可能性がある」という。
一方では、桜満開でのんきに花見している人々。
日本の人々は、余りミサイルのことは気にしていない模様。
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昼ご飯は、野菜たっぷりの野菜ラーメンを作って、汗をかいて食べた。
仕事の悩みで胃が痛いので、胃薬を飲む。
さてさて、今日は、これからどうするかな・・・。
<夕やけニャンニャン オープニングテーマ>
1985年4月、自分は浪人生活に入っていく。
と同時に、TV「オールナイトフジ」が終了し、4月1日に「夕やけニャンニャン」がスタートする。
女子大生ブームの後に来たのは、そのさらに下の層の女子高生に焦点を当てた番組だった。
ともに、ウラで暗躍していたのは、秋元康だった。
スタッフも、同時にその多くは「オールナイトフジ」のスタッフが、そのまま「夕やけニャンニャン」に移行していった。
当初、司会は、オールナイトフジと同様、鶴ちゃん(片岡鶴太郎)、そして、松本小雪だった。
***
自分は、御茶ノ水の駿台予備校に行った後、その後、歩いて水道橋を通り、さらに、春日通りを後楽園前を通り歩き、「真砂(まさご)図書館」に向かって行った。
相当な距離だったが、自分が、浪人という負い目を感じていた中、体を鍛える意味でも、自分で自分の道を行くという意味でもひたすら歩いていた。
その頃、同様に駿台予備校に通っていた巣鴨学園の同期と、集まっていたのが、後楽園の向かいにあった「ラルゴ」という喫茶店だった。
そこに、17:00には着き、「夕やけニャンニャン」を見ながらコーヒーを飲むのが楽しみだった。
1985年4月、自分は浪人生活に入っていく。
と同時に、TV「オールナイトフジ」が終了し、4月1日に「夕やけニャンニャン」がスタートする。
女子大生ブームの後に来たのは、そのさらに下の層の女子高生に焦点を当てた番組だった。
ともに、ウラで暗躍していたのは、秋元康だった。
スタッフも、同時にその多くは「オールナイトフジ」のスタッフが、そのまま「夕やけニャンニャン」に移行していった。
当初、司会は、オールナイトフジと同様、鶴ちゃん(片岡鶴太郎)、そして、松本小雪だった。
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自分は、御茶ノ水の駿台予備校に行った後、その後、歩いて水道橋を通り、さらに、春日通りを後楽園前を通り歩き、「真砂(まさご)図書館」に向かって行った。
相当な距離だったが、自分が、浪人という負い目を感じていた中、体を鍛える意味でも、自分で自分の道を行くという意味でもひたすら歩いていた。
その頃、同様に駿台予備校に通っていた巣鴨学園の同期と、集まっていたのが、後楽園の向かいにあった「ラルゴ」という喫茶店だった。
そこに、17:00には着き、「夕やけニャンニャン」を見ながらコーヒーを飲むのが楽しみだった。